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日本人の物語00822【建武期】二条河原の落書

 元弘4(1334)年1月29日、後醍醐天皇は「建武」と改元しました。既に後醍醐天皇の新政は多くの批判にさらされていましたが、ここで気持ちを一新したかったのかもしれません。
 しかし批判がやむことはありませんでした。建武元(1334)年8月になると、二条河原に誰が立てたとも知れない高札に、政権批判の落書きが掲げられました。この落書きは
「この頃都に流行るもの。夜討ち、強盗、偽綸旨」
で始まる有名なもので、「二条河原の落書」と呼ばれています。七五調で非常に語呂がよく小気味良いテンポの上に、内容は極めて辛辣です。今に至るまで作者は不明ですが、相当に教養のある公家か武家であろうと考えられます。
 内容を要約すると、
「犯罪が多く治安が悪い。偽の天皇の命令書がはびこっている。口が立つ者が嘘ばかりついて出世し、利益を得ている。一方で庶民たちは戦のせいで家を焼かれ、住むところもない。焼け残った建物も横暴な役人に有無を言わさず差し押さえられている。こうした現状を知っていながら、役人たちは保身に奔走し、上司にゴマを擦るばかりだ」
といった具合でしょうか。
 しかも最後に
「京童の口ずさみ、十分の一をもらすなり」
とあり、京の子供たちが口ずさんでいる歌の1割を記したに過ぎないというのです。
 この落書が全てを物語っています。元弘3(1333)年6月に始まった建武の新政は、1年あまりで破綻したといってよいでしょう。後醍醐天皇は鎌倉幕府という既存の権威を滅ぼすことにかけては驚異的なカリスマを発揮しましたが、政権担当能力、特に個々の利害を調整する能力は皆無だったのです。
 後醍醐天皇が為政者として失敗した点は様々挙げられますが、
・土地問題の全てを自分の手で差配しようとしたこと
・恩賞問題は上卿に一任したはずなのに、結局自分が口を出してしまって指揮系統を混乱させたこと
・自分に近しい者にばかり恩賞を与えたり、土地訴訟を勝たせたりすること
あたりでしょうか。
 野にあって政権を批判し、民衆を煽動して政権を転覆するところまでは上手く進めていたのに、その後いざ政権を担ってみると能力不足が露呈したわけで、こうした事例は枚挙にいとまがありません。
 政権への不満が鬱積していく中、いよいよ護良親王をめぐる対立が火を噴くこととなります。

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