日本人の物語01610【室町/東国/長尾景春の乱】謀反開始
「長尾景春の乱」というチャプター名ながら、なかなか乱が始まっていませんでした。今回やっと始まります。
家督を小鹿範満が継ぐこととなったため、北川殿と龍王丸は丸子城(静岡市駿河区)に隠遁を強いられることとなりました。今川家家督問題を無事に解決させた太田道灌は、文明8/享徳25(1476)年9月に江戸城へと帰陣しました。
しかし、道灌が不在にしていた半年間のうちに、上杉軍は大変なことになっていました。この6月、長尾景春が五十子の陣から勝手に退去し、鉢形城(埼玉県寄居町)に入ったのです。
山内上杉顕定は、景春のこの行動を「単に政治的に敗北して隠居したもの」と捉えたらしく、景春が勝手に辞任したものとみなし、景春の権益を勝手に収奪し始めました。しかし道灌は景春の行動を「主君たる山内上杉顕定に反乱を起こす準備に入ったもの」と捉え、ひどく慌てました。
江戸城の道灌は五十子の陣に使者を派遣し、「一旦長尾忠景を引退させ、景春と和睦すべき」と主張しましたが、取り合ってもらえませんでした。道灌のこの主張は、景春を余程強敵と認めていたことを意味します。
道灌の予想通り、景春は鉢形城で虎視眈々と反逆の機会を窺っていました。道灌の留守中を狙って反乱を企てたともいえますし、あるいは仲介役として最も期待できる道灌が不在となったために、主家との和睦を諦めたものとも考えられます。
道灌も和睦を諦めてしまったのか、江戸城に籠もったまま五十子に顔を出そうとしません。何度意見具申しても全く聞いてもらえないことに業を煮やしたのでしょう。
そして文明9/享徳26(1477)年1月18日に事件は起こりました。長尾景春が鉢形城から出陣し、五十子の陣を襲撃したのです。景春の反逆に至るまでには相当の伏線があったのに、上杉軍は全く予期していなかったらしく、大混乱に陥って逃げ惑うばかりでした。
五十子の陣は完全に破れ、
・山内上杉顕定と長尾忠景は阿内(群馬県前橋市)に
・扇谷上杉定正と太田道真は細井口(群馬県前橋市)に
・越後上杉定昌は白井城(群馬県渋川市)に
・岩松家純は金山城(群馬県太田市)に
それぞれ逃れました。景春は深追いせずに鉢形城に引き上げていきました。
それにしても景春の謀反の目的は何だったのでしょう。長尾氏出身の景春はどう頑張っても古河公方や関東管領にはなれません。景春が狙っていたのはあくまで「山内家の家宰」というポジションです。しかし、山内上杉顕定を倒したとして、誰を山内家当主に据えるつもりなのでしょう。景春はいわゆる「脳筋キャラ」で、何も考えていなかったのかもしれません。
ともあれ「長尾景春の乱」が始まり、享徳の乱は新たな展開を迎えました。
漫画「新九郎、奔る」での長尾景春は完全な脳筋キャラで、私のイメージ通りでした。
