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日本人の物語00727【鎌倉後期】室町院領をめぐる攻防

 元亨4(1324)年2月25日。再び持明院統と大覚寺統の対立が表面化する事件がありました。幕府が室町院領の再分配をするよう指示したのです。
 「室町院領」とは、後堀河天皇の皇女であった室町院暉子内親王(むろまちいんきしないしんのう:1228~1300)が保有していた大規模な荘園のことです。
 そもそも皇室が持っていた荘園の多くは後鳥羽上皇の所有でしたが、承久の乱によりその荘園は鎌倉幕府に没収され、後高倉法皇に献上されました。その後、後高倉法皇の死により所有権は子の後堀河天皇に移転し、さらに後堀河天皇とその子の四条天皇までもが相次いで亡くなったため、莫大な荘園が暉子内親王に相続されることとなりました。
 暉子内親王は、自らの死後はその荘園を宗尊親王に譲ると決めていましたが、宗尊親王の方が先に亡くなってしまい、相続人が決まらないまま暉子内親王もまた亡くなりました。こうして行き先を失った莫大な土地を誰が相続するか、争いとなって幕府の裁定に持ち込まれたのです。
 幕府は正安4(1302)年、
「亀山上皇(大覚寺統)と伏見上皇(持明院統)が折半すべし」
との裁定を下しました。
 それから20年以上も経って、元亨4(1324)年に宗尊親王の娘・永嘉門院瑞子女王(えいかもんいんみずこじょおう:1272~1329)が
「父に譲られるはずだった所領の所有権は私にあるはずだ」
と訴えを起こしたのです。幕府はその訴えを聞き入れ、室町院領の再分配を決定しました。
 永嘉門院瑞子は大覚寺統の後宇多法皇に嫁いでいたため、もし瑞子に相続権が認められれば、持明院統は丸損、大覚寺統は丸儲けとなります。持明院統の花園上皇は日記に
「余管領の分、幾ばくならず」(私の取り分はほとんどないではないか)
と記して嘆き、側近の日野俊光(ひのとしみつ:1260~1326)を鎌倉に派遣して強く抗議しました。工作の甲斐あって幕府は判断を撤回し、室町院領は両統の折半に落ち着きました。
 このように、持明院統と大覚寺統は事あるごとに対立を繰り返し、その度に幕府への説得工作に注力し、どうにか両立が図られてきました。
 しかし、このように幕府の存在感が発揮されたのは、持明院統の中心人物・花園上皇と大覚寺統の中心人物・後宇多法皇がともに幕府に頼る姿勢を見せていたためでした。この後、大覚寺統の中心が後宇多法皇から後醍醐天皇に移ると、幕府の権威はみるみる揺らいでいくこととなります。

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