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日本人の物語00712【鎌倉後期】永仁の徳政令 御家人の貧困

 頼綱を滅ぼし、敵のいなくなった執権貞時は、政務に並々ならぬ意欲を持ち、永仁2(1294)年10月20日、引付衆を廃止して全ての訴訟を貞時自身が決裁する方針を打ち出しました。
 引付衆は、増え続ける訴訟処理を効率化するために5代執権時頼が設置したものです。ただでさえ忙しい執権を雑務から解放するため、引付衆がほとんどの訴訟を処理していたのですが、これを廃止するとは実に大胆です。
 ところが、あまりの事務負担に耐えられなくなった貞時は、翌永仁3(1295)年10月24日に引付衆を復活させることとなりました。執権貞時は弱冠20歳でしたから、若さゆえの勇み足といったところでしょう。
 もう一つ、貞時の勇み足かもしれない有名な法令が、永仁5(1297)年3月6日に発令されました。世に言う「永仁の徳政令」です。
 この法令は、幕府自身が「永仁の徳政令」と名付けたわけではなく、「関東御事書の法」と題されて発表された法令が、後世に「徳政令」と呼ばれるようになったものです。
 当時、武士の所領は子たちに分割相続されるルールとなっており、子がたくさんいればいるほど所領が細かく分割されたため、鎌倉後期にもなると御家人の多くが困窮していたのです。貧困に悩んだ御家人は、短期的に食糧を手に入れるために所領を売却したり質に入れたりして生活していました。
 そんな御家人たちを救うために発令されたのが永仁の徳政令です。
 法令の内容は、
「御家人が生活苦から質入れ又は売却した土地は、無償で取り返せる」
というものです。御家人の生活を救うために、御家人と取引をした金貸し業者の利益を蔑ろにするもので、この法令は社会に大きな混乱をもたらしました。
 この法令について、一般的には次のような理解がなされていると思います。
「徳政令は一時的には御家人に利益をもたらしたが、これ以後、御家人たちに金を貸してくれる者がいなくなり、御家人たちの更なる窮乏を招く結果となった」
 私もこのように教わった記憶があります。
 しかし、無償で取り返せることとなったら、それ以後御家人たちが金を借りづらくなるのは火を見るより明らかです。通常人が常識的に頭を働かせればできる未来予測でしょう。貞時をはじめとする当時の為政者たちは、そんなにも愚かだったのでしょうか。
 近年、「永仁の徳政令の実像は大きく異なるものだったのではないか」との説が出て、通説が否定され始めているのです。

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