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日本人の物語00690【鎌倉中期】杜世忠の斬首

 文永の役の後、元は再度の使節として杜世忠(とせいちゅう:1242~1275)を送り込んで来ました。いつもは博多経由で大宰府にやって来るのに、今回彼らが接岸したのは長門国(山口県)でした。恨みを買っているであろう九州の人間と接触するのを避けたかったのかもしれません。
 杜世忠と日本側とでどういう交渉がなされたのか分かりませんが、杜世忠一行は鎌倉までやって来ることとなりました。これまで、元の使節に対しては全て大宰府から京に近づけさせないようにしていたのに、どういう風の吹き回しなのでしょう。
 ところが執権時宗は杜世忠一行の処刑を決めてしまい、建治元(1275)年9月7日、一行は鎌倉龍ノ口で斬首されました。杜世忠の辞世の詩は次のようなものです。
 門を出づれば 妻子寒衣を贈る
 我に問ふ 西行して幾日にして帰る
 来たる時もし黄金の印を佩びば
 蘇秦を見て機を下らざることなからむ
 蘇秦(そしん:?~B.C.284)とは中国戦国時代の外交家であり、交渉に失敗して家に帰ってきた際、妻は機織りの手を止めることもせず、夫を完全に無視したといいます。つまりこの詩の意味は、
「家を出る時、妻子は寒さをしのぐための衣服を自分に贈り、いつ帰ってくるのかと聞いた。帰って来た時、もし(交渉に成功して)黄金の印綬を身に着けていたならば、蘇秦の妻のように機織りにかまけて夫を無視することなく、私を迎えてほしい(と思っていたのに、帰ることができなくなってしまった)」
といったところでしょう。
 杜世忠たちは、龍ノ口に程近い常立寺(じょうりゅうじ:神奈川県藤沢市)に葬られ、供養塔が建てられました。平成17(2015)年に朝青龍、白鵬らがこの供養塔に参拝したのを皮切りに、毎年モンゴル出身力士が参拝するようになりました。参拝時には、モンゴルで英雄に贈られる色である青い布を五輪塔に巻くようになったそうです。
 それにしても、外交使節を殺害するというのは現代ではもちろん、当時としても国際常識としてあり得ない行為であったと考えられます。杜世忠の斬首を知った日蓮もまた、「私がいれば斬らせなかったのに」と語っています。
 弘安2(1279)年6月。杜世忠が斬られたことを知らないフビライは、更なる使者を派遣して来ました。博多に到着した使者・周福(しゅうふく)は再び元への服属を迫りましたが、そのまま博多で斬られてしまいます。
 8月。遅まきながら杜世忠が斬られたことを知った元政府は激怒し、元国内で「日本討つべし」との機運が高まりました。無理からぬことと思います。

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