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日本人の物語00768【鎌倉末期】上赤坂城の戦い 陥落

 阿蘇治時が考えたのは、8万騎もの大軍勢による力攻めでした。さっさと決着をつけたかったのでしょう。
 しかし、ゲリラ戦法を得意とする平野・楠木軍に対してこれは愚策中の愚策でした。上赤坂城の三方は非常に高い崖に取り囲まれており、道らしい道は南方だけだったのですが、そこも深い堀になっており、その堀を囲むように櫓が建てられているので、無理に進もうとすると恰好の餌食になります。
 数を頼みとする阿蘇軍はひたすら真っ向から攻略しようとしますが、ひたすら矢で射られ続け、毎日500人を超える死傷者が出る状態が13日間も続いたといいます。
 そこで、別の作戦を考えたのが播磨国の武士・吉川八郎(よしかわはちろう)という人物でした。吉川は、
「正成はここしばらく兵糧の確保に努めていましたから、城内の食が尽きないことはおかしなことではありません。しかし、火矢を打ち込んで水で消火されてしまうのは不思議です。なぜあの城に豊富な水の蓄えがあるのでしょうか。もしかすると、地下に水路があって南の山から水を引いているのではありませんか」
と述べ、人夫を集めて山の麓を掘らせることを提案しました。
 阿蘇がこの意見具申を容れて麓を掘ってみたところ、まさしくそこに敵の水路がありました。これを破壊することで平野・楠木軍は水を入手できなくなり、そこから12日が経過する頃にはもはや兵は気力を失い戦闘を継続できなくなりました。
 火矢を消す水もなく、櫓がほぼ破壊されてしまったため、平野・楠木軍の兵たちは
「もはや玉砕するしかない」
と開城しようとしました。しかし平野重吉は必死に
「正成殿の千早城は未だ陥落しておらず、天下の趨勢はまだ定まっていない。死ぬよりも投降して生き延び、機会を見計らうべきではないか」
と兵たちを説得しました。この説得を受け、翌日の阿蘇軍との交渉の結果、助命を条件に平野始め282人が投降することとなりました。
 ところが、この助命の約束はあっけなく破られることとなりました。平野たちはそのまま六波羅探題に引き渡され、評議の結果、全員が六条河原で打首・獄門の上晒し首となってしまったのです。
 この厳しい措置は、幕府の命をさらに縮める結果となりました。というのも、平野たちの処刑を知った他の反乱軍は、一切投降せず最後まで戦うことを決めてしまったのです。

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