日本人の物語00963【南北朝初期】脇屋義助死す
あまりメジャーではない南北朝時代の四国戦線の状況を描いていきます。初めて登場する地名が多いんですが、それにしても「四国中央市」って面白い地名ですよね。
興国3/暦応5(1342)年4月1日、後村上天皇から西国の平定を命じられた脇屋義助は、ちょうど四国への航路が開けている間を縫って、伊予へと向かいました。
元々、義助が吉野に到着した時点で付き従っていたのは僅か500騎足らずでした。しかし義助が吉野を出発して高野山に参拝し、田辺、熊野、児島を回っているうちに兵は次々と増え、4月23日に今治(愛媛県今治市)に到着したときには大軍になっていました。
四国入りした義助を出迎えたのは、大舘氏明と四条有資(しじょうありすけ)です。
大舘氏明は、後醍醐天皇によって伊予守護に任じられ、前年の春から伊予に住んでいました。一方、四条有資というのは何度か登場している大納言・四条隆資の子で、伊予国司として前々年から伊予に派遣されていました。
これら大舘氏明・四条有資らは、讃岐や土佐から侵入する敵をどうにか防いでいる状況でしたが、大将である義助がやって来たことで兵たちの士気は大いに上がりました。それまで伊予国には北朝方の城が10数ヶ所あったのが、脇屋軍が攻撃するよりも前に、皆恐れをなして逃げ出していったといいます。
南朝方は
「これなら四国統一は時間の問題だ」
と非常に勢い付きました。四条隆資が言っていたとおり、天皇が将軍を目に見える形で重用すれば、その将軍が派遣されただけで戦況が大きく変わるものなのですね。
ところが、南朝方の勢いはここまででした。というのも5月4日、伊予国府にいた義助は突然発病し、5月11日に病死してしまったのです。新田義貞亡き後、南朝の総大将格として期待されていた大物武将の突然の死でした。
『太平記』はこの義助の死をあまりに呆気なく記しており、他の文献を見ても死因などが特に記されていません。とにかく、四国の戦況がせっかく劇的に好転した直後に、南朝はまたもや主要人物を失ってしまったというわけです。
伊予にいた南朝方の兵たちは、義助の死が敵に知られると敵兵を勢い付かせることになるというので、葬儀は密かに執り行っていましたが、さすがに隠しきれませんでした。しばらくしたところで、北朝方の四国の大将軍・細川頼春(ほそかわよりはる:1304~1352)の耳に入ってしまいます。
細川頼春は
「これぞ好機だ。絶対に逃してはならない」
と言って、伊予・讃岐・阿波・淡路の軍勢7千騎余りで、伊予との国境にある川之江城(愛媛県四国中央市)へと押し寄せて、城主・土肥義昌(どいよしまさ)を攻め始めました。
