日本人の物語01602【室町/東国/長尾景春の乱】長尾景春の乱概観
チャプター名に名を冠してみたものの、そもそも長尾景春の乱自体があまり知られていませんね。
応仁の乱が終結したところで、再び東国に話を転じます。
本章では、長尾景信が死去した文明5/享徳22(1473)年6月23日から享徳の乱が終結する文明14(1482)年11月27日までの東国情勢を描いていきます。享徳の乱が始まったのは享徳3(1454)年12月27日のことですから、なんと29年間も続いたことになります。
本章の内容をざっと予習すると、享徳の乱の一方当事者である上杉軍の内部で長尾景春が反乱を起こし、太田道灌がこれに立ち向かい、二正面作戦に耐えられないと考えた上杉方が足利成氏との和睦に向かうという流れです。
この時期の主役は何といっても太田道灌です。
太田道灌は、長尾景春の乱を鎮圧する上で最も活躍した人物であるにもかかわらず、長尾景春に対して最も同情的な態度を示した人物でもありました。景春はその傍若無人な振る舞いのために上杉家中で嫌われていた節があり、一方道灌もまた人を小馬鹿にした言動が目立つことから家中で孤立しており、二人は馬が合ったようです。
景春は反乱を起こす上で「道灌は味方になってくれる」と信じていましたが、道灌はむしろ景春を諭し、反乱をやめさせるべく奔走しました。そして景春反逆後もどうにか戦乱を避けようと動いていましたが、説得に失敗し、やむなく武力鎮圧に向かうのです。
長尾景春が起こした反乱に、道灌の味方であったはずの豊島氏(としまし)が加担してしまいます。豊島氏は道灌の持つ江戸城と河越城という2つの拠点の間の土地を領していたため、道灌は分断された2拠点の連絡を回復するために出陣します。こうして「石神井城の戦い」「練馬城の戦い」「江古田・沼袋原の戦い」が起こります。いずれも西武新宿線又は西武池袋線の沿線であり、東京都民なら見慣れた地名でしょう。
私はかつて「なぜ道灌は西武線沿線でばかり戦っていたのだろう」と不思議に思っていましたが、西武鉄道が新宿と川越を結んだ以上、その沿線に長尾景春の乱の主要な合戦地が含まれるのは当然のことなのです。
この時期の太田道灌の行動については、道灌自身が文明12(1480)年11月28日付けで山内上杉家家臣の高瀬民部少輔(たかせみんぶしょうゆう)に宛てた書状『太田道灌状』に詳しく描かれています。道灌はこの長い書状の中で、自分がいかに長尾景春の反乱に対処したか、周囲の人間がいかに愚かだったか、自分はいかに正当に評価されていないかを訴えています。道灌は自分の手柄を大袈裟に書いたり、周囲の人間を本来以上に愚かしく描いたりしている可能性があり、割り引いて捉える必要がありますが、戦の日時等の事実関係に間違いはなさそうなので、とりあえず本章では『太田道灌状』を頼りに描いていきます。
太田道灌がメインで活躍するチャプターなので、チャプター名には長尾景春ではなく太田道灌の名を入れておけば良かったなと今更に思います。
