日本人の物語01664【室町/西国/六角征伐】加賀の一向一揆
加賀の一向一揆は、日本の歴史の中でも大変珍しい、共和国のようなものが発足した出来事です。もっと注目されて良いと思います。
鈎の陣の幕府軍と甲賀山中の六角軍が睨み合う膠着状態が続き、義尚は徐々に味方を減らしていきました。
長享元(1487)年12月には日野富子が所領関係の話で義尚と揉め、小川御所を飛び出して北岩倉の金龍寺(京都市左京区)に駆け込みました。具体的にどんな話で揉めたのか分かりませんが、義政といい富子といい、揉めると家を飛び出す癖があるようです。後土御門天皇がわざわざ勅使を派遣して戻ってくるよう要請したのに、富子のストライキは1年近くに及びました。
そんなバタバタした中で、鈎の陣にいた加賀守護・富樫政親が慌ただしく領国に帰っていきました。国人と一向宗徒たちが、政親に対して謀反を起こしたためです。
加賀国といえば、以前から富樫政親・幸千代兄弟の対立があり、政親が吉崎御坊の一向宗徒と結んで一挙に有利になったのでしたね。幸千代は文明6(1474)年11月に一向宗徒に襲撃され、加賀から追放されました。
このとき一向宗徒の力を借りた政親は、徐々に宗徒たちを警戒するようになり、規制を強めました。それに不満を感じた一向宗徒は、国人たちと結びつき、富樫泰高を擁立して政親への反逆を開始したわけです。
ここで富樫泰高の名が久しぶりに登場しました。かつて富樫家では成春(甥)VS泰高(叔父)の対立が起こっていたのですが、和睦して泰高が成春の子・政親に家督を譲ったという経緯がありました。一向宗徒は政親と対立関係にある人物を探した結果、泰高に行き着いてこれを擁立することになったのでしょう。帰国した政親は、さっそく泰高と一向一揆衆の討伐に当たります。
蓮如は既に吉崎御坊から退去したとはいえ、そのカリスマ性はなおも加賀の一向宗徒に影響を与えています。特に蓮如が越前・加賀に息子たちを残していったことで、その子を中心に一向宗徒は結束していました。宗徒たちに擁立された息子たちは次のとおりです。
・蓮如の三男・蓮綱(れんこう:1450~1531): 松岡寺(石川県小松市)
・蓮如の四男・蓮誓(れんせい:1455~1521): 吉崎御坊(福井県あわら市)
・蓮如の七男・蓮悟(れんご:1468~1543): 本泉寺(石川県金沢市)
そして長享2(1488)年6月9日、蓮綱率いる一向一揆衆は、高尾城(石川県金沢市)を攻撃して富樫政親を自害に追い込みました。何と民衆の武力が一国の守護を殺害するに至ったのです。戦嫌いの蓮如にとってこれは許容できないことだったらしく、蓮如は一揆の中心となった寺院に「お叱りの御書」を送り、この暴動を支持できないと表明しています。
政親敗死を知った将軍義尚は怒り狂って討伐軍を差し向けようとしますが、政元がこれを止めました。一向宗は政元に感謝し、これ以降政元との蜜月関係を築いていきます。
これ以降、加賀は一向宗徒による自治で運営されました。これを蓮如十男の実悟(じつご:1492~1584)は「百姓の持ちたる国」と呼んでいます。
蓮如というキーマンが、加賀の一向一揆の中心人物とはならず、その後継者だけが蓮如の意志に反して一揆を起こしていたとは。歴史は本当に複雑なものだと思います。
