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日本人の物語01317【室町/義持期】小川宮の奇行

「二日酔いの歴史」という本を書くとしたら、足利義持が最初に出てくるはずです。でも薄っぺらい本になりそうですね。

 称光天皇はかなり病弱だったらしく、その病状は後小松上皇や将軍義持をやきもきさせました。
 最初に体調不良との記録があるのは応永29(1422)年3月です。3月時点では大したことはなかったようですが、6月8日には「医者も匙を投げるほどの重篤」との記録があります。
 8月5日。義持は後小松上皇を訪れ、何やら相談したようです。その中に、彦仁王(ひこひとおう:後の後花園天皇:1419~1471)の名が出てきたといいます。つまり皇太子が不在のまま天皇が崩御することを恐れ、皇太子候補として考慮したものとみられます。天皇には一応、小川宮という弟がいたものの、前述のとおりとんでもない問題児でした。
 しかし結局、同月中に小川宮が皇太弟となりました。
 12月に称光天皇は奇跡的に回復したのですが、小川宮の奇行は相変わらずで、義持らを大いに心配させました。
 応永30(1423)年2月16日。小川宮の世話役・勧修寺経興(かじゅうじつねおき:1396~1437)の通報によりとんでもないことが発覚しました。小川宮は女房姿に変装して、武器を持ったまま内裏に潜入しようと計画していたというのです。詳細不明ですが、女性関係の問題で称光天皇に恨みを持ったといいます。後小松上皇は嘆きながら義持に「よく教訓してやってほしい」と依頼してきました。
 このことで逆恨みしたのか、2月22日、小川宮は称光天皇のかわいがっていた羊をひどく欲しがり、強引に譲り受けておきながらその直後に撲殺するという事件を起こします。こんな人物が天皇になって大丈夫なのかと周囲は心配したことでしょう。
 称光天皇の病も小川宮の奇行も、「吐くまで飲む」ことが当然とされていたこの時代の飲酒文化と関係があるかもしれません。義持自身は応永23(1416)年12月27日の満済日記に「御二日酔気」と書かれているように二日酔いするほど飲んでいましたし(これが二日酔いに関する日本史上最初の記述です)、関白二条持基は吐きながら飲む特技の持ち主でした。
 義持はやがて断酒を決心し、健康のためか節約のためか分かりませんが
・応永26(1419)年10月9日に五山を対象に禁酒令
・応永27(1420)年2月7日に宝幢寺(京都市右京区)の落慶供養に付き従う公家・武家に禁酒令
・応永27(1420)年5月15日に禅院全てに禁酒令を拡大
・応永28(1421)年7月25日に息子の義量に大酒しないよう戒告
・応永28(1421)年7月29日に近臣36人に「大酒飲みは止める」と起請文を提出させる
というように禁酒令をたびたび出しています。
 しかし称光天皇も小川宮も、そして義量も、恐らくは飲酒によって命を縮めることとなります。

「羊を欲しがって強引に譲り受けておきながらその直後に撲殺する」とは大変珍しい奇行ですね・・・。

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