日本人の物語01369【室町/義教期】天魔の所行
歴史上、ちょくちょく落馬で死ぬ武将がいますね。その全てが陰謀だとまでは思いませんが、怪しいのもいますね。
永享5(1433)年11月30日。それまで健康体だった37歳の斯波義淳が突如として危篤に陥りました。斯波家では、後継を弟の持有(もちあり:1413~1440)と決めていたのですが、義教は「もってのほか」と言ってこれを退け、出家していた別の弟・義郷(よしさと:1410~1436)を指名しました。またもや家督相続への介入です。
翌12月1日に義淳は死去し、義教の指示通り義郷が継承することとなりました。この義郷は3年後の永享8(1436)年9月28日に落馬して頭を強打し、30日に死去するのですが、アンチ義教派の仕業かもしれません。
斯波家の次に狙われたのは裏松家(日野家の庶流)です。
永享6(1434)年2月9日。義教の側室・裏松重子(うらまつしげこ:1411~1463)が男子・千也茶丸(せんやちゃまる:後の7代将軍足利義勝:1434~1443)を産みました。重子の兄に当たる中納言・裏松義資は、これで次期将軍の伯父となる可能性が出てきたわけですから、多くの公家が裏松邸に祝いに駆けつけましたが、これが義教を怒らせることとなりました。というのも、義資は以前、青蓮門院への「不忠」を理由に譴責処分を受けた経緯があるのです。具体的にどんな不忠だったのか不明ですが、当時青蓮門院の門跡だった義教は余程根に持っていたのでしょう。
義教はあらかじめ義資邸に見張りをつけ、祝賀に訪問した公家を特定して次々と処罰していきました。あまりに陰湿な行動であり、貞成親王は『看聞日記』に「天魔の所行」と記しています。
そして事態はさらに悪化します。6月9日、裏松義資宅に盗人が押し入り、金目の物を奪った上に義資を殺害したのです。犯人は捕まりませんでしたが、当然「義教の仕業だろう」との噂が出回ります。
義教は噂を口にした者を取り締まるよう命じ、たまたま噂を口走った高倉永藤(たかくらながふじ:1385~1436)を死罪にせよとまで命じます。さすがに側近の赤松満政がこれを諫止し、薩摩硫黄島(鹿児島県三島村)への流罪ということで話がまとまりました。真相は不明ですが、裏松義資殺害の犯人が義教である可能性は十分にあると思います。
これほど恐ろしい独裁者義教に対して、立ち向かおうとする者は鎌倉公方持氏くらいでしょう。持氏は同年3月18日に、鶴岡八幡宮に
「殊には呪詛怨敵を未兆に於いて攘(はら)ひ、関東の重任を億年に担はん」
(呪詛すべき敵を打ち払い、関東を治める仕事を未来に渡って担いたい)
などと書かれた血書願文を納めました。実際に持氏の血が使われているかは定かでありませんが、何とも物騒です。
鹿児島県三島村というのは、竹島、薩摩硫黄島、黒島という3つの島から成る自治体で、なんと村役場が鹿児島市内にあるそうです。確かにどの島も鹿児島市内とだけフェリーで繋がっているわけですから、役場は島に置くより鹿児島市内に置いた方が便利なんでしょうね。
