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日本人の物語01302【室町/義持期】山入孤立

最近、茨城県の常陸太田市と常陸大宮市に行ってきましたが、小さな郷土史料館があるだけで、見学者向けに整備された史跡や佐竹家・山入家の歴史を知れる博物館がありませんでした。佐竹家のメインの居城である太田城(またの名を舞鶴城、佐竹城)も小学校の敷地内のため見学不可でした。残念です。

 上杉禅秀の乱に話を戻します。
 前述のとおり、義持が禅秀の残党を融和しようとする一方で、持氏はあくまで徹底的に滅ぼそうとしており、京と鎌倉とで方針の違いが浮き彫りとなってきました。関東管領・山内上杉憲基は幕府に従うよう持氏を諫めますが、持氏は聞く耳を持ちません。
 一方、禅秀の残党の中でも最大勢力を誇る山入与義は、居城である国安城に立て籠もるとともに周辺の国人たちにも持氏軍からの攻撃に備えるよう命じました。
・額田城(茨城県那珂市)の額田義亮(ぬかたよしあき)
・稲木城(茨城県常陸太田市)の稲木義信(いなぎよしのぶ:?~1417)
・長倉城(茨城県常陸大宮市)の長倉義景
・山方城(茨城県常陸太田市)の山方海夫(やまがたかいふ)
らは籠城して、なおも持氏に従わない姿勢を見せました。
 持氏の命を受けた佐竹義人は、彼らを成敗せねばなりません。応永24(1417)年3月、義人はまず額田城を攻め、額田義亮は祖父・秀直(ひでなお)の病が重篤化したこともあって、籠城18日目で降伏しました。
 次なるターゲットは稲木城です。6日間の攻防ののち、4月24日に佐竹義人は稲木城を陥落させました。城主・稲木義信は討たれ、城兵たちは非情にもことごとく斬られたといいます。他への見せしめのためでしょう。
 三番目のターゲットは長倉城です。佐竹義人は家臣・小野崎通知(おのざきみちとも)に大将を任せました。小野崎通知は岩城氏からの援軍と合流するまで待ち、合流後に大軍を率いて総攻撃をかけたところ、2日目で長倉義景は降伏してきました。
 残る山方城も、大軍に囲まれて難なく降伏しました。これにて山入与義が当てにしていた同盟軍は全てやられてしまいました。与義はそれでも国安城に立て籠もって降伏しようとしません。
 一方、持氏が行っている徹底的な残党狩りに抗議するため、4月28日、憲基は関東管領を辞して三島(静岡県三島市)に退きました。
 懐刀を失った持氏は、閏5月13日に龍ノ口(神奈川県藤沢市)で岩松満純を処刑するなど相変わらず強気な姿勢を見せていましたが、6月30日には憲基に詫び、関東管領に再任させました。さすがの持氏も、関東管領を敵に回すことは危険と判断したようです。
 それでも、幕府と鎌倉府の対立はなかなかやみませんでした。

佐竹家はこの時点では茨城県常陸太田市を拠点にしていますが、戦国時代に茨城県水戸市に移転し、関ヶ原で負けてから秋田県秋田市に移転します。もしかすると秋田に行けば佐竹家の歴史を知れるかもしれませんね。

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