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日本人の物語01642【室町/西国/六角征伐】猿楽師への偏愛

義尚が将軍の器ではなかった、という話です。後世の創作ではなく同時代人の日記に書かれた話です。

 義政と義尚、父子の確執は未だに解決していません。
 文明13(1481)年10月20日夜。義政は住み慣れた小川御所から出奔し、岩倉長谷(京都市左京区)の聖護院宿坊へと向かいました。その原因は、義尚の奇行がやまないことと、守護が押領地を返還しないことだったそうです。最高権力者たる大御所が、政務が上手くいかないことを理由に出奔するとはひどい話です。義政はそのまま東山山荘(後の銀閣)の建築に着手し、芸術の世界へとのめり込みました。
 一方、義尚はわがまま放題に育ってしまいました。11月2日に義尚は、前阿波守護・細川成之から絵巻物26巻を借り、5日後にその1巻を手元に置いて(つまり自分のものにして)残りを返却したとの記録があります。これ以降も義尚は絵巻物に傾倒し、寺社や公家からたびたび借り出しているのですが、そのまま召し上げられてしまう可能性があるため公家・寺社は嫌がるようになりました。
 翌文明14(1482)年5月1日に、義尚は伊勢貞宗邸から小川御所に移りました。父が長らく御所としていた場所で本格的に政務を開始しようというのでしょう。
 義尚の本気を見た義政は、7月13日に政権を完全に義尚に移譲し、以降は様々な決裁、守護から朝廷への働きかけの仲介など、多くの政務を義尚が行うようになりました。
 ところが、義尚のわがままぶりは様々な軋轢を生みました。
 11月に義尚は、かねてより折り合いの悪かった正室・祥雲院を追い出し、故・万里小路冬房(までのこうじふゆふさ:1423~1475)の娘・命子(ながこ)に夢中になりました。日野家からもらった正室を蔑ろにしたわけですから、このことは富子を敵に回したはずです。
 12月には、義尚はお気に入りの猿楽師・彦次郎を取り立て、広沢尚正(ひろさわひさまさ)という名を与えて元服させました。広沢という苗字は、足利義康の孫・広沢義実(ひろさわよしざね)に由来するものなので、言わば足利一族に加えられたわけです。細川政元ら幕臣たちはこのことに大いに不満を漏らし「将軍家に仕えるのを辞めて領国に帰る」と言い出した者もいたといいます。
 翌文明15(1483)年になると、義尚は広沢尚正を結婚させようと言い出しました。そしてあろうことか、正親町三条公治の娘に狙いを定めて使いを送りました。当時の常識からすると、正親町三条家に猿楽師出身の男と結婚せよというのはあまりに侮辱的でした。
 義尚は2日間に17回の使者を派遣したといい、その督促ぶりは脅迫に近いものでした。公治の娘はこれを屈辱と捉えて剃髪し、逐電してしまいます。義尚はやむなく赤松貞村の娘に狙いを変えましたが、こうした義尚の行動には義政も不快感を示しています。
 大乗院尋尊は日記に
「前代(鎌倉幕府)は田楽で滅びた。当代(室町幕府)は猿楽で滅ぶか」
と記しており、田楽を好んだ北条高時と義尚を比較しています。

高時が田楽を好むあまりに政治を疎かにした、というのは(史実かどうかを別として)興福寺の僧でも知っている話だったんですね。

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