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日本人の物語00688【鎌倉中期】文永の役 八幡愚童訓

 元寇の詳細を記した文献に、『八幡愚童訓(はちまんぐどうくん)』という書物があります。この書物は、史実を記した戦闘実録のように見えるところと、荒唐無稽な宗教説話とが入り混じった不思議な文献です。
 この文献が語るエピソードをいくつか紹介しましょう。
1「元軍が博多に上陸しようとする際、少弐資能の孫が矢合わせに鏑矢を射たところ、元軍はこの意味が分からずどっと笑った」
 鏑矢というのは、戦を始めるときに最初に射るものです。相手方にダメージを与えることが目的ではないので、相手の船まで届かなくてもよいのです。その矢が一本だけ飛んで来て、それが船まで届かなかったことから、元軍は「この程度の攻撃力なのか」と嘲笑したということでしょう。
 このエピソードは、日本側の戦の常識を元軍が知らなかったことを意味します。
2「元軍が太鼓を叩き、銅鑼(どら)を打ち、鬨の声を上げるやかましさに、日本側の馬は驚いてしまって進退が思うようにならなかった」
 戦闘中に銅鑼を打つ文化は日本にはなく、日本の法螺(ほら)に比べて大変な音量だったことでしょう。これには日本側の人も馬も大層驚いたことと思います。
3「元軍が使う矢には毒が塗ってあり、急所を外れたとしても傷口から毒が効いてきて、矢に当たった者は次々と倒れていった」
 この毒矢という手法は、鎌倉武士にとって大いに卑怯な手に映ったことと思われます。
4「鉄砲がひどい音を立て、目がくらみ耳をやられてしまった」
 当時の鉄砲は火縄銃と異なり、当たって死ぬ確率は低いものだったらしく、間近で爆発して目や耳をやられる程度だったようです。それでも戦場で視力や聴力を奪われることは致命的だったでしょう。
5「日本軍は一人ずつ相互に名乗り合って戦おうとしたが、敵は大勢で一人にかかっていく手法であったため、日本側は次々討たれてしまった」
 これが元寇で最も有名なエピソードかもしれません。日本式の「名乗り」が通じなかったという話です。
 これらはいずれも教科書や資料集に載っている逸話ですね。しかしこれらのエピソードについては、本来以上に御家人が苦戦したストーリーを捏造したものである可能性が指摘されています。実際、前述のとおり同時代の史料を見ると、日本側は元軍の副司令官・劉復亨に傷を負わせるほどに善戦しているのです。

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