見出し画像

日本人の物語01475【室町/西国/大乱前夜】日野富子登場

日野富子はかつて悪女とされてきましたが、最近評価が大きく変わってきているようですね。そういえば北条政子もそうですね。

 康正2(1456)年8月29日。伏見宮貞成親王が満84歳の長寿で崩御しました。上皇号を得ているため、諡名(おくりな)は「後崇光院」と定められました。本稿は貞成親王の日記『看聞日記』に頼るところが大きかったのですが、遂に貞成親王ともお別れです。
 この貞成親王の長男・後花園天皇がこれ以降の天皇の系統となり、次男・貞常親王が旧皇族11宮家の系統となります。つまり、明治以降の全ての皇族は貞成親王の子孫に当たるのです。
 この崩御に前後して、義政は数え16歳の日野富子(ひのとみこ:1440~1496)を正室に迎えました。「将軍は正室を日野家から迎える」との義満以来の慣例は、今もなお守られています。年頃の富子は、
「義政は今も乳母の今参局に夜伽をさせているらしい」
との噂をどう受け止めたでしょうか。
 結婚という祝事があったものの、義政の周辺では争いが絶えません。
 まず美濃国では、守護・土岐持益が嫡子・持兼(もちかね:?~1455)を病で失いました。幸い、持兼は死ぬ直前に庶子・亀寿丸(かめじゅまる)を残していたため、持益はこの亀寿丸に家督を継がせたいと主張しましたが、守護代の斎藤利永が「幼君では不安がある」として反対しました。
 斎藤利永が擁立したのは、土岐家庶流の成頼(しげより:1442~1497)でした。守護と守護代の意見対立でしたが、なんと守護代の言い分が勝ち、康正2(1456)年、土岐持益は隠居させられ、土岐成頼が守護となりました。
 守護をもしのぐ実力者となった斎藤利永は4年後の長禄4(1460)年5月27日に死去し、守護代の座は嫡子の斎藤利藤(さいとうとしふじ:?~1498)に引き継がれますが、事実上の守護代としての権力は利永の弟の妙椿(みょうちん:1411~1480)が握りました。この斎藤妙椿は、後に応仁の乱で大活躍を見せる人物です。
 さらに8月には「長禄の土一揆」がありました。河内国で関所の新設に反対する一揆が起こり、河内国だけで616個の関所が破られたのです。これが飛び火して、10月には京の出入口が一揆勢に塞がれてしまいました。幕府は細川勢300、一色勢100、山名勢200、土岐勢200からなる討伐軍を編成したにもかかわらず、10月27日の合戦で一揆勢に敗れました。大乗院経覚は日記に
「武家のていたらく、形なきが如し。歎くべし歎くべし」
と記しています。

だんだん守護よりも守護代が強い時代になってきていますね。戦国時代が近いです。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集