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日本人の物語01410【信広渡海】安藤氏の歴史 本家滅亡

青森の話ばかりでしたが、今回やっと北海道の話に入りました。

 十三湊に戻った安藤盛季・康季父子は、いつまた南部守行・義政父子の侵攻を受けるか分からない不安定な地位にありました。永享9(1437)年に南部守行は大槌孫三郎(おおつちまごさぶろう)の大槌城(岩手県大槌町)に侵攻し、流れ矢に当たって横死したのですが、とはいえ子の南部義政がまだまだ頑張っており、南部氏全体の勢いは衰えていません。
 さて、そうこうするうちに安藤父子にとって頼みの綱であった6代将軍義教が嘉吉の乱で横死してしまいました。
 嘉吉3(1443)年5月。再び十三湊侵略を思い立った南部義政は、親戚として平和的に福島城を訪問し、安藤盛季・康季父子を油断させておいて、突如として城外から兵を入れて乗っ取ってしまいます。安藤父子は再び柴崎城に逃亡しました。
 今回は幕府からの助けが期待できません。柴崎城も危ないと考えた安藤盛季は一族を集めて協議し
「勇なりとも猪突は犬死になり。生命あらば末代の再興も夢ならじ」
と述べ、蝦夷ヶ島への撤退を決議しました。ただし、一部の史料では安藤盛季は応永21(1414)年2月2日に死去したとの記述もあり、このとき盛季が生きていたかどうかは不明です。
 盛季が蝦夷ヶ島のマトウマイに渡った一方、子の康季は殿(しんがり)としてしばらく柴崎城にとどまり、12月にマトウマイへと渡りました。このマトウマイというのは日本語で発音すると「松前」となり、つまり現在の北海道松前町を指します。
 安藤氏は初めて本拠を蝦夷ヶ島に移しました。それまでも和人が蝦夷ヶ島に住む例は多数あったものの、室町幕府から権限を与えられた武士が蝦夷ヶ島に本拠を持ったのはこれが初めてのことであり、言わば和人がアイヌの支配者となるための第一歩を刻んだといえます。
 とはいえ、この安藤盛季・康季父子の蝦夷ヶ島居住は長くは続きませんでした。僅か2年後の文安2(1445)年、安藤康季は十三湊を奪回するべく津軽西浜(津軽半島西部)に上陸し、引根(青森県弘前市)に陣を布いて南部氏と戦う準備に入りましたが、その直後に病死してしまったのです。
 十三湊奪回の夢は康季の子・安藤義季(あんどうよしすえ)に託されました。ところがこの義季もまた、宝徳3(1451)年に津軽半島に上陸後、南部義政と激戦を繰り広げた末、敗北し享徳2(1453)年10月9日に狼倉(おいのくら:青森県弘前市)で自害に追い込まれました。
 これにて下国安藤氏の本家はここで滅亡しました。生き残った兵は深浦(青森県深浦町)に館を築き、南部義政に抵抗し続けたといいます。

江戸時代に北海道を統治した松前氏はアイヌ人ではなく和人ではありますが、その苗字は実はアイヌ語から来ているんですね。

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