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日本人の物語01182【南北朝末期】春日神木事件 藤氏長者放氏

南北朝時代は武士の動向ばかり注目されますが、二条良基という公卿もなかなか注目に値する面白い人物です。

 大宰府を失った菊池氏は勢力を盛り返そうと動きます。文中2/応安6(1373)年2月14日、菊池武政・武安は今川方の本告城(もとおいじょう:佐賀県神埼市)を攻撃しますが決着がつきません。これ以降7月まで菊池方と今川方は各地で戦いますが、いずれも決着がつかず膠着状態となります。
 九州で圧倒的な武力を見せていた菊池氏は、大宰府陥落以降、ひどく勢いを失いました。当主である菊池武光が病に倒れていたせいでしょう。この後11月16日に武光が病死し、南朝方はさらに凋落を極めます。
 さて、京では春日神木事件が新たな展開を見せました。8月6日、要求がなかなか履行されないことに業を煮やした興福寺が、何と前関白・二条良基の放氏を決めたのです。近衛道嗣は日記に
「放氏の事等、丞相以上は未だ聞かざる事なり。況や摂関の臣の放氏、前代未聞の珍事なり」
(丞相以上の位の者が放氏処分を受けるとは聞いたことがない。まして摂関家の放氏とは前代未聞である)
と書いています。確かに、藤原氏のトップに立つ藤氏長者が、藤原氏の氏寺である興福寺から追放処分になるとは驚きです。
 しかし二条良基は何らたじろがず平然と出仕を続け、後光厳上皇もそれを容認しました。後光厳上皇は、興福寺の強訴のせいで息子(後円融天皇)の大嘗会が延期されたことを恨み、興福寺に強硬な立場で臨んでいたのです。
 本来放氏処分を受けた者は宮中に出勤できないはずですが、上皇も良基自身も気にせずに仕事を続けると、誰も指摘できず業務を継続できるようです。興福寺は喧嘩を売る相手を誤ったといえるでしょう。
 朝廷の強硬な姿勢により、興福寺の伝家の宝刀である「放氏」がさほど効き目のないものだと露呈し、興福寺の権威はみるみる落ちていきました。
 しかしこの半年後に皆が興福寺を恐れる出来事がありました。翌文中3/応安7(1374)年1月29日に、後光厳上皇が疱瘡で死去したのです。官人たちは
「さては春日明神の怒りか」
と噂し合ったといいます。春日神木はやはり恐れ多いものなのだと、多くの者が悟った瞬間でした。
 結局、春日神木事件はまだまだ続きます。

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