日本人の物語01189【南北朝末期】大内弘世の処分
喉と鼻の調子がもう10日近くも治りません。これは花粉症でしょうね。
天授2/永和2(1376)年には、今川了俊とその協力者である大内氏の動向に新たな動きがありました。
大内弘世・義弘父子といえば、了俊が九州上陸戦を敢行する上で協力してくれた幕府方の武将で、その本拠地は山口(山口県山口市)です。
水島の変の前後に、了俊は大内弘世にも出陣を依頼しましたが、弘世は思うところがあったのか、これを拒絶してきました。ところが大内父子の間で何らかの確執があったらしく、子の義弘だけが了俊のもとに駆けつけてきました。了俊は弟・仲秋の娘を義弘に嫁がせていたので、義弘との関係は良好だったのでしょう。
そして天授2/永和2(1376)年4月、大内弘世は毛利元春(もうりもとはる:1323~?)が了俊支援のために九州出陣中なのをいいことに、その領地である吉田(広島県安芸高田市)へと侵攻しました。これは幕府への反逆と捉えるべきか、はたまた単なる私戦とみなすべきか、微妙なところでしょう。しかし了俊への敵対行為であることは間違いありません。
了俊の陣に加わっていた義弘は驚き、これは父が単独で行ったことであり自分は無関係である旨を弁解しました。弘世の勝手な所業を知った義満・頼之は、弘世の石見守護職を剥奪する旨を決定します。
すると、守護解任を恨みに思った弘世が南朝方に寝返るとの噂が広まりました。そうなると北九州にいる了俊は、目の前の南九州にいる菊池家・島津家と後方の山口にいる大内家の挟み撃ちに遭うこととなります。
細川頼之は盟友の了俊を救うべく、意外な決定を下しました。閏7月14日、
「弘世の周防・長門守護職について剥奪するつもりはない」
と表明したのです。つまり弘世が3つ持っている守護職のうち、奪うのは石見だけだというのです。これにより、大内弘世の南朝寝返りは避けられました。
後顧の憂いを払拭できた了俊は、引き続き菊池・島津との戦いを進めます。
両面作戦は危険と判断した了俊は、島津の動きを封じるために子の満範(みつのり)を人吉(熊本県人吉市)に着陣させ、大隅国の禰寝久清(ねじめひさきよ)を味方に引き込む調略活動を行わせました。禰寝氏に寝首をかかれるかもしれないと知った島津氏久は、薩摩から出撃することができません。その間に了俊は菊池との戦いに注力できるというわけです。
天授3/永和3(1377)年1月13日、了俊は千布・蜷打の戦いで良成親王・菊池武朝を破りました。千布(ちふ)も蜷打(になうち)も佐賀県佐賀市内の地名です。戦闘の詳細は伝わっていませんが、良成親王も菊池武朝も「危うく戦死を免れた」とありますから、幕府方の大勝利だったのでしょう。
