日本人の物語00898【建武期】建武式目制定
ここで越前の攻防戦は一旦措いて、後醍醐天皇が帰洛した後の都の状況に舞台を切り替えましょう。
尊氏にとっては、後醍醐天皇が「投降」に近い形で入洛して来たことで、ほぼ政権を掌握できた状態となりました。
延元元/建武3(1336)年11月7日、尊氏は「建武式目」を発表して武士たちに職務に当たる際の心構えを示しました。鎌倉幕府の基本法が「御成敗式目」で、室町幕府の基本法が「建武式目」である……と私は授業で習った気がするのですが、どうも「建武式目」は法令というより、これから武家政権を創設するぞという意志を示した文書のように見えます。要約すると次のようなものです。
〇第1条 武家は鎌倉にあるべきか否か
鎌倉は初めて武館を構えて(北条)義時殿が天下を治めた土地であり、縁起のよいところであるが、その後の北条家は権力をほしいままにして悪政を行い、滅亡に至った。結局のところ栄えるか滅ぶかは、場所に関係なく正しい政治を行えるかどうかなのだ。もし鎌倉に移りたいという者が多ければ考えることとする。(つまり引き続き京にいることにしよう)
〇第2条 政道について
武家の全盛の頃を手本とし、善政を施すつもりである。重要なことは次のとおり。
1 倹約すること
2 大勢で酒を飲んで遊ばないこと
3 狼藉しないこと
……以下、武士の在るべき姿について17項目まで挙げられています。17項目としたのは、聖徳太子の十七条憲法を意識してのことと考えられます。
この建武式目第1条を見ますと、北条義時の時代を理想と位置づけ、その政権を継承しようとする態度が窺えます。原文では「武館を構へ」という言葉を用いていますが、これは武家政権を開設することを指し、あわせて鎌倉に移るべきかどうかを議論するということは、まさに武家政権を立ち上げて統治する意志を示したと解釈して良さそうです。
なお、室町幕府の成立時期については複数の説があり、
・建武式目制定: 延元元/建武3(1336)年11月7日
・足利尊氏の征夷大将軍就任: 延元3/建武5(1338)年8月11日
・足利義満の室町御所への転居: 天授4/永和4(1378)年3月10日
などが挙がっており、この「建武式目」が制定されたことをもって室町幕府が成立したと捉える研究者もいます。
いずれにせよ、尊氏が鎌倉幕府と同様に武士を統治する意図を対外的に表明した「建武式目」は、政治史上重要な位置を占める文書といえるでしょう。
