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日本人の物語01295【室町/義持期】上杉禅秀の乱 持氏敗走

市町村索引と人名索引の両方を更新していく作業が日課になったのですが、市町村より人名の方が圧倒的に大変です。毎回必ず新しい人物が登場し、人数カウントが増えていきます。連載終了時には、登場人物は3万人を超えているかもしれません。

 鎌倉公方・足利持氏と前関東管領・上杉禅秀の本格的な戦が始まりましたが、その緒戦は皮肉なことに佐竹同士の戦いとなりました。持氏が匿われた上杉憲基邸に禅秀方の山入与義軍が突進していくと、そこに佐竹義人軍が立ちはだかったのです。義人軍の兵たちは、山入方の兵に見知った顔が多かったため思わず戦闘を避けてしまい、山入与義は敵の大将たる義人にギリギリまで近づくことができました。
 山入与義は憎き仇敵・義人を討とうと刀を振り上げますが、いざとなると剣先が鈍ります。実は山入与義は、かつて江戸氏の娘・お通(おつう)と恋仲にありましたが、お通は佐竹本家の義盛に嫁いでしまった経緯がありました。そのお通は源姫を産んだ直後に病死してしまい、目の前にいる17歳の少年・義人は源姫の夫なのです。源姫が12歳にして未亡人となってしまうことを想起すると、与義にはどうしても義人を斬れません。義人は敗北したものの辛くも逃れることができました。
 以上の話は佐竹文書に伝わる伝説です。どうも佐竹家には、本家よりも山入家に感情移入するエピソードが多く伝わっている気がします。
 ともあれ、山入の活躍もあって上杉憲基邸は陥落し、持氏はさらに敗走を重ねます。
 応永23(1416)年10月6日には化粧坂、六本松、由比ヶ浜で戦闘が発生しますが持氏方が敗れました。このとき持氏方であった扇谷上杉家の当主・氏定(うじさだ:1374~1416)は重傷を負って自害したといいますから、余程の激戦だったのでしょう。
 禅秀が勝利できた理由は、鶴岡八幡宮や建長寺といった有力寺院に加え、多数の御家人をあらかじめ味方に引き込んでいたことでしょう。例えば持氏の実弟・持仲(もちなか:?~1417)すらも、満隆の養子となって反乱に加担していたのです。
 持氏は命からがら憲基の領国である伊豆へと逃れました。一方、憲基は持氏を伊豆に逃れさせつつ、自らは越後へ逃亡しました。より多くの味方を募るためでしょう。
 敵を蹴散らした満隆・禅秀は鎌倉を制圧し、満隆が新鎌倉公方、禅秀が新関東管領を名乗り始めました。彼らは「幕府のお墨付きを得た上で公方・管領に就任した」との文書を東国にばらまきましたが、これは嘘でした。
 持氏が鎌倉から放逐された旨の情報が陸奥にも届きました。稲村公方の満貞は持氏支持を表明しましたが、禅秀派に属する篠川公方の満直は旗幟を鮮明にせず、幕府の出方を窺うことにしました。このように、東国は事実上、禅秀派と持氏派に二分されてしまったのです。
 鎌倉での政変の情報が京の幕府に届いたのは、10月13日のことでした。義持率いる幕府の面々は、この乱にどう対応するのでしょうか。

鎌倉での史跡散策はこれまで何度かやってみたのですが、いずれも鎌倉時代の史跡ばかり見ていました。実際には鎌倉には室町時代の史跡も多数あるので、次回はそのコンセプトで散策してみたいと思います。

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