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日本人の物語01273【室町/義満期】佐竹家の百年戦争開始

完全に時系列順に書こうとすると話があちこちに飛んでしまうし、かといってテーマごとに書こうとすると時系列がめちゃくちゃになってしまう。なかなかのジレンマです。

 ここで遠く関東の情勢にも目を向けておきましょう。応永14(1407)年には、常陸国を治める佐竹家において、「佐竹の乱」「山入の乱」あるいは「百年戦争」と呼ばれる戦乱が始まりました。
 始まりは、応永14(1407)年9月21日に当主・佐竹義盛(さたけよしもり:1365~1407)が男子をもうけないまま死去したことでした。当然、家督を誰が継ぐべきかが問題となります。手を挙げたのは佐竹家の分家筋である山入家の山入与義(やまいりともよし:?~1422)でした。
 そもそも山入家というのは、「観応の擾乱」で戦功を挙げた佐竹師義(さたけもろよし:?~1351)が常陸国久慈郡山入(茨城県常陸太田市)に領地を与えられ、「山入」の姓を名乗り始めたことで生まれた家でした。師義は当主である兄の義篤とは良好な関係を築いていました。
 その後、佐竹本家と山入家それぞれで世代交代があり、本家は孫の義盛、山入家は子の与義の時代となりました。義盛が死去して本家の男子が途絶えたわけですから、叔父である山入与義が家督相続を期待するのは当然でしょう。
 しかしその期待は裏切られ、鎌倉公方満兼は、関東管領に就任したばかりの上杉憲定の子・義人(よしひと:1400~1468)を義盛の娘・源姫(げんひめ:1405~?)に婿入りさせる形で、佐竹本家を継がせることを決定しました。想像ですが、満兼は幕府が厚く信頼する憲定を厚遇することで、幕府との関係を改善しようと考えたのではないでしょうか。ちなみに義人は当初「義憲」と名乗っていましたが、ややこしいので本稿では最初から義人と呼ぶことにします。
 全く異なる血筋の者が佐竹家を継ぐわけですから、山入家は黙っていられません。与義はひどく反発し、佐竹家は
・太田城(茨城県常陸太田市)の佐竹本家
・国安城(茨城県常陸太田市)の山入家
の2派に分裂してしまいました。
 この対立はなんと百年も続き、決着がつくのは永正元(1504)年のことです。この間、関東では
・上杉禅秀の乱: 足利持氏(←佐竹本家)VS犬懸上杉禅秀(←山入家)
・永享の乱: 足利持氏(←佐竹本家)VS山内上杉憲実(←山入家)
・享徳の乱: 足利成氏(←佐竹本家)VS山内上杉家(←山入家)
 (一時的に佐竹本家が山内上杉家に味方した時期もある)
と次々に戦乱が発生するのですが、佐竹本家と山入家は常に敵対しています。今後も山入家は何度も登場しますが、とにかく佐竹本家と仲が悪いことを覚えておいていただければと思います。

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