日本人の物語00466【平安末期】富士川の戦い 平家方布陣
頼朝が鎌倉に本拠を置き、着実に味方を増やしていく中、平家方は本格的な追討軍を派遣しようとしていました。治承4(1180)年9月21日、平維盛(たいらのこれもり:1159~1184)を大将とする追討軍が福原を出発します。維盛は重盛の長男で、
「容顔美麗。尤も耽美するに足る」
と九条兼実が日記に書き記すほど美男子で知られていました。
ところが、この追討軍は平安京にしばらく滞在し、内輪揉めを起こしてしまいます。一説によると、侍大将の伊藤忠清が「十死一生日を忌むべき」と主張し、維盛と対立したために出発が遅れてしまったというのです。「十死一生日」とは古代中国の思想で不吉な日とされており、こうした風習に従うことは、当時の兵の士気を上げる上で重要だったのでしょう。
京に長く留まったせいで、維盛らが駿河(静岡県)に到着したのは、10月16日のことでした。この間、10月14日に鉢田(静岡県富士宮市)において、
「平家方の橘遠茂(たちばなのとおしげ:?~1180)が、源氏方の武田信義(たけだのぶよし:1128~1186)に敗れ戦死した」
という知らせが聞こえてきました。敗戦を聞いた平家方は大いに士気を失ったことでしょう。
駿河に到着した維盛らは、富士川(静岡県富士市)に陣を布きました。川沿いは広く開けており、源氏方と戦うにはちょうどよい場所です。
富士川に留まっている間、
「東国武士はどんな者たちなのか、詳しい者の話を聞こう」
ということになり、老武者・斎藤実盛が語って聞かせることとなりました。斎藤実盛は、かつて源義朝に仕えて平治の乱などで活躍した武士ですが、主を失った後は平家に仕えていました。若い頃から東国の合戦で活躍していたので、東国武士の戦い方や考え方について深い知識を持っていたのでしょう。
ところが、敵を知るために行った斎藤実盛の講義は、全くの逆効果となりました。実盛は東国武士の強さを経験談を踏まえて熱く語り始め、
「東国武士の矢は鎧をも射抜く」
などと話したため、平家方一同は怖気付いてしまい、士気が下がってしまったのです。
そこに聞こえてきたのが、「源氏方は20万人もいる」との偽情報でした。事実だとしたら、4千騎しかいない平家に勝ち目はありません。おそらく源氏方が意図的に流した情報ではないかと思われます。
常識的に考えてそんな兵力を動員できるわけがないのですが、ただでさえ怖がっている中での話ですから、平家方の兵たちはますます震え上がり、隙あらば逃げ出したいと考え始めます。
