日本人の物語01541【室町/西国/応仁の乱】応仁改元
やっと「応仁」が始まります。ここまでは文正年間だったんです。
上御霊社の戦いは山名宗全の支援を得た義就方の勝利に終わりました。細川勝元は将軍の命により一切の支援をしなかった一方で、宗全は将軍に逆らって積極的に義就方を支援したわけですが、院宣を得ていたこともあって宗全の命令違背は一切罰されませんでした。
戦の混乱がほぼ収束した文正2(1467)年1月20日、宗全方の斯波義廉・畠山義就といった有力守護たちが幕府に出仕し、「反乱」の平定を祝いました。将軍御所に連れ出されていた後花園上皇ら一行も内裏へと戻っていきました。一方、細川勝元らは抗議するかのように出仕をやめて自邸に引き籠もりました。
1月23日に義政は畠山政長の逮捕捜索を命じました。あれほど「どちらの味方もしない」と言っていたのに、院宣が出てしまったせいで義政も政長討伐に動かざるを得なくなったのでしょう。政長の身柄を密かに勝元が匿っていたことは知られていなかったようです。
1月27日になってようやく勝元らが出仕して来ました。2月6日には、勝元が主催した石清水八幡宮奉納連歌会に対して義政も発句を寄せており、つまり勝元は逆賊扱いされていません。確かに勝元は一切手を出さなかったわけですから、咎められるいわれがありません。
幕府の混乱をよそに、2月6日に富子の兄に当たる日野勝光が内大臣に就任し、任大臣節会の開催を強行しました。本来ならば幕政の混乱を理由に延期を検討すべきところ、あくまで自身の出世栄達を優先させた勝光は、世間から「押大臣(おしだいじん)」と呼ばれました。「押しの強い大臣」といった意味でしょう。勝光は4月10日に後花園上皇・義政・義視を自邸に招いて和歌会を行うなど、東軍方の味方であることをアピールしました。
勝元と宗全の対立は着々と進んでいます。3月3日には宗全・義就が節句の祝いのために将軍御所に出仕し、今出川の義視邸にも挨拶しましたが、この日細川勝元・斯波義敏・京極持清は出仕しませんでした。密かに戦闘準備を進めていたものと思われます。
細川方が節句をボイコットしたことと関連があるかどうか分かりませんが、同じ3月3日、伯耆守護・山名教之の家臣が阿波守護・細川成之の召使を殺害する事件がありました。詳細不明ですが、明らかに山名方から細川方への挑発でしょう。
かくもキナ臭い空気の中で、3月5日に改元が行われました。年明け早々に戦乱が発生したこと、更なる紛争が起きそうな空気が満ちていることから、朝廷でもどうにか状況を打開しようと考えたのでしょう。元号は「応仁」になりました。
3月8日には、斯波義敏の子で越前に落ち延びていた斯波義寛が上洛し、細川勝元邸に入りました。勝元は畠山家のみならず斯波家の家督問題に対しても本格的に介入する気です。一敗地にまみれた勝元方は、耽々と復讐のチャンスを窺っています。
4月になると、山名方の年貢米が領国から京に運ばれる途中で何者かに奪い取られる事件が起こりました。恐らく細川方の仕業でしょう。
戦乱が一旦収束したように見えますが、いやいや、応仁の乱はここからです。
