日本人の物語00330【平安中期】長徳の変
長徳2(996)年。花山法皇は夜な夜な人目を忍んで藤原為光(ふじわらのためみつ:942~992)の四女のもとに通っていました。一方、藤原伊周は為光の三女のもとに通っていました。
ここで何の行き違いか、伊周は花山法皇が自分と同じ三女のもとに通っていると勘違いしてしまいます。
伊周がこれを弟の隆家に相談したところ、1月16日、隆家はなんと夜間に女のもとに通う花山法皇の一行を襲撃しました。隆家らは矢で攻撃を仕掛け、法皇の従者2名を殺害。しかも法皇の衣の袖に矢が当たったというので、法皇自身の命も危ないところでした。あまりの横暴です。
この大事件にさすがに公卿らは動揺し、伊周を大宰権帥、隆家を出雲権守に左遷することを決定しました。法皇への殺人未遂を左遷だけで済ませるのはすごいと思いますが、権勢著しい藤原氏の最有力者を左遷させるというのは、なかなか勇気の要る決定だったのかもしれません。
ところが、伊周も隆家もこの人事異動に従わず、家宅に籠もってしまいます。
兄と弟の不祥事を受け、中宮定子は内裏を出て二条北宮(京都市中京区)に移りました。事実上の謹慎ということになります。道長は検非違使を使わして隆家を逮捕させましたが、伊周は逮捕を免がれようと二条北宮に逃亡しました。妹の定子を頼ったわけです。
道長はやむなく二条北宮を捜索するよう指示を出しました。捜索の際には、中宮定子が兄・伊周の逮捕を防ごうと手を握り続けていたところを、検非違使たちが振りほどいて逮捕したといいます。これにより、定子は悲嘆のあまりその場で髪を下ろし落飾してしまいました。
おそらくこのとき、清少納言もまた二条北宮の中にいたと思われます。目の前で起きた悲劇に清少納言はどう感じたのか、残念ながら枕草子には何も記されていません。
取調べが終了し、伊周・隆家の2人は釈放され、改めて任地行きを命じられましたが、伊周は播磨に、隆家は但馬にとどまって結局任地には行きませんでした。
この思わぬ敵失によって、道長の権勢は揺るぎないものとなりました。伊周は愚かな弟に足をすくわれた形になります。この事件を「長徳の変」といいます。
道長にとって最大のライバルが失脚した一方で、従兄の一人が突如としてライバルとして名乗りを上げてきました。
同年11月14日、藤原顕光(ふじわらのあきみつ:944~1021)が、娘の元子(もとこ)を一条天皇の女御として入内させたのです。顕光は兼通の子です。一条天皇の最愛の女房・定子が失脚したので、ここで権勢を巻き返せると思ったのかもしれません。
