日本人の物語00306【平安中期】62代村上天皇
反乱鎮圧直後の天慶4(941)年11月8日。藤原忠平が関白に就任しました。この後の忠平政権は、特段何事もなく平穏な日々を過ごしていきます。
天慶9(946)年のある日、皇太后・藤原穏子が朱雀天皇に
「帝位につくあなたを見上げるのが嬉しい。次は東宮(とうぐう:皇太子のこと)を同じように見上げたい」
と述べました。自分の産んだ子が2人とも帝位につくのが嬉しいということでしょう。これを聞いた朱雀天皇は、
「母は早く東宮に譲位して欲しがっている」
と考え、4月20日、弟の成明親王(なりあきらしんのう:926~967)に譲位してしまいます。こうして成明親王が即位しました。村上天皇です。
穏子は「何年も先のことを言ったつもりだったのに」と悲しみました。朱雀天皇の読みは無用の忖度だったのですね。
天暦元(947)年4月26日。忠平の長男・藤原実頼(ふじわらのさねより:900~970)が左大臣に、次男・藤原師輔(ふじわらのもろすけ:909~960)が右大臣に就任しました。二人の息子が最高官職に就くのを見届けた忠平に、もう思い残すことはなかったでしょう。
天暦3(949)年8月14日。最高権力者・藤原忠平は死去しました。69歳でした。
ここで、権勢を極める藤原実頼・師輔兄弟に対抗勢力たらんと名乗りを上げた人物がいました。南家藤原氏出身の藤原元方(ふじわらのもとかた:888~953)です。
藤原師輔は娘の安子(やすこ:927~964)を村上天皇に入内させていましたが、同様に、藤原元方もまた、娘の祐姫(ゆうひめ)を村上天皇に入内させていました。どちらが男子を産むかの競争ということになります。
そして天暦4(950)年。祐姫が広平親王(ひろひらしんのう:950~971)を産みました。元方は「これで天皇の外戚になれる」と喜びました。
しかし、事態は元方の思うようには進みませんでした。同年、安子が憲平親王(のりひらしんのう:後の冷泉天皇:950~1011)を産み、後で産まれたはずのこの憲平親王が、生後僅か2ヶ月で立太子したのです。
やはり南家出身の元方が外戚になどなれるはずがなかったのですね。失望の末、元方はまもなく病死しましたが、その後怨霊となって憲平親王に取り憑いたとの伝説があります。これより後、憲平親王が即位して冷泉天皇となるのですが、冷泉天皇は奇行の目立つ人物でした。元方の怨霊のせいだといわれています。
なお、冷泉天皇の子は花山天皇と三条天皇ですが、花山は狂気の子であり、三条は若くして眼病にかかり失明してしまいます。偶然だと思いますが、当時は元方の怨霊のせいだと噂されたわけです。
