日本人の物語00675【鎌倉中期】太政大臣・徳大寺実基の奏状
文永2(1265)年から文永9(1272)年の間のいつの話か定かではありませんが、太政大臣・徳大寺実基(とくだいじさねもと:1201~1273)は、後嵯峨上皇の諮問に応じて奏状を提出しました。上皇の「どのような政治を進めればよいか」という質問に対して、文書で回答したということです。
その奏状の内容は、実基の合理主義的な考え方がよく表れたものです。
「神事は大事ですが、人の煩いなく行われる必要があります。誠心のこもっていない供え物をいくら揃えても、神はお納めになりません。よって、神事のために税を重くすることは許されません」
「仏法の興隆は重要ですが、今日仏法が衰退したのは、僧侶の修行不足のためです。やみくもに国費をかけて寺院の修復をしても、仏法の興隆には役立ちません」
この時代に、これほど「人間中心主義」を打ち出した為政者は珍しいと思われます。
この徳大寺実基は徒然草にも二度登場するのですが、いずれのエピソードも実に合理主義者らしさが表れています。
徒然草206段のエピソードは次のようなものです。
検非違使別当・徳大寺公孝(とくだいじきんたか:1253~1305)が、自邸で検非違使庁の会議を開いていたところ、参加した職員・中原章兼(なかはらのあきかね)の牛が車から離れて館に入り、別当が座るべき座に横たわってしまいました。一同が
「これは重大な異変である。牛を陰陽師のところに届け、占ってもらおう」
などと話し合っていると、公孝の父・実基が現れ、
「牛には足があって分別がないのだから、どこへでも登るだろう。わざわざ役人の牛を没収して占う必要などない」
と述べ、牛を退かせました。その後、特に異変は生じなかったといいます。
徒然草207段のエピソードも紹介しましょう。
亀山天皇の邸宅を建てようと敷地の地ならしをしていたら、穴の中から無数の蛇が出てきました。一同が
「これはこの土地の神ではないか。むやみに取り除くことはできないぞ」
などと話し合っていたところ、実基が現れ、
「帝が治められる日本に住む虫が、帝の住まいを建てるのになぜ祟りをなすのか。鬼神は邪道なことはしない。そのまま捨ててしまえ」
と述べました。実基の言うことに従って蛇を川に流して捨てたが、その後祟りはなかったとのことです。
国土の多くが飢饉に悩まされていた時代、朝廷にこのような現実主義者がいたことは国民にとって幸いなことだったといえるでしょう。
