日本人の物語00329【平安中期】御堂関白記*
道長の日記『御堂関白記』は世界最古の自筆日記であり、世界記憶遺産に認定されています。これだけ古い時代の為政者の日記が残っているというのは世界的にも稀有なことのようです。
さて、御堂関白記は人に読まれることを想定していない備忘録ですので、悪筆で誤字が多いことで知られています。研究者泣かせな史料です。
自信過剰な自賛の言葉が多い一方、愚痴や自信喪失の言葉も多く、道長の等身大の姿が見えてくるようです。また、人の悪口が多い一方、感激屋ですぐに泣く涙もろい一面もあったようです。
私が読んでいて面白かったのは、
「本日開催した宴に誰と誰が来なかった。何か思うところがあってわざと欠席したのだろうか」
という「考えすぎだろ」という記述や、
「今日は何か指示しようと思って検非違使を呼んだのに、何だったか忘れてしまった。仕方なくどうでもいい指示をして帰した」
という人間くさい記述です。平安時代から人間の日常は変わらないものだなあ、と笑ってしまいます。
そういえば、一条天皇の崩御の日には「崩給(崩じ給ふ)」と書くべきところを誤って「萌給」と書いてしまっているのです。「萌えてどうする」と思わずつっこんでしまいました。
さて、長徳元(995)年4月23日、藤原済時が死去しました。居貞親王が寵愛する娍子の父です。居貞親王としては兼家一家と対抗するための後ろ盾を失った格好になります。
それにしても、権力闘争がかなり複雑化してきましたね。かつては「藤原氏と非藤原氏の争い」という分かりやすい構図でしたが、この時代には兼家家と済時家の争いがあり、さらには兼家家の中でも伊周と道長の対立があるのです。
その伊周と道長の対立の煽りを受けた人物がいました。定子に仕えていた清少納言です。清少納言は文学者として一目置かれていたようですが、道長を褒め称える文章を発表したため「道長派」とレッテルを貼られ、同僚たちとの関係が悪化したのです。定子は伊周の妹に当たることから、いわば清少納言はアンチ道長派のグループに属しているわけです。そんな立場でありながら道長を褒めたため、同僚から怒られたというわけです。
清少納言はやむなく長期休暇に入ります。女房たちの間の職場いじめがどんなものだったか分かりませんが、あの気の強い清少納言が休業しなければならないとは余程のことだったのでしょう。
さて、道長派と伊周派の対立が深まる中、長徳2(996)年にその勝敗を決する大事件が発生します。

