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日本人の物語00797【鎌倉末期】稲村ヶ崎の奇跡

 この稲村ヶ崎は大きな岩が海まで突き出しているところですので、当然、徒歩や馬で鎌倉に入ることはできないはずの場所です。
 しかし義貞はそこに奇跡を起こし、道を作ることとなります。
 元弘3/正慶2(1333)年5月21日深夜。稲村ヶ崎で義貞は、黄金作りの太刀を持って、竜神に対して祈りを捧げました。
「願わくは海の竜神よ、潮を沖遠くに退け、道を開きたまえ」
 そう言って太刀を海中に投じると、なんとみるみる潮が引いていき、海中に道ができました。義貞らはそこを通って鎌倉に入ることができたというのです。
 もちろんこれは『太平記』の創作です。実際には義貞は極楽寺坂を見事陥落させてそこを通ったのかもしれませんし、あるいは当時の稲村ヶ崎は干潮時には道ができる程度に砂が積もっていたのかもしれません。最近の研究では、
「稲村ヶ崎にはギリギリ通れる程度の道があったので、新田軍がそこから入って来ないよう幕府水軍が見張っていた。当日は暴風雨によって水軍が機能しなくなっていた」
との説が提唱されているようです。
 さて、5月21日深夜に新田義貞が稲村ヶ崎を突破して鎌倉に突入し、その翌日の5月22日が鎌倉幕府最後の1日となります。
 新田軍の主力が鎌倉の市街地に進入し、幕府方は大混乱に陥ります。幕府軍が次々とやられたり逃げ出したりしていく中、北条高時以下幕府の重鎮たちは東勝寺に立て籠もっています。
 この東勝寺の陣中に、嶋津四郎(しまづしろう)という大男がいました。嶋津四郎は長崎円喜が烏帽子親をつとめた剛の者で、言わば北条家の最終兵器です。新田軍が若宮大路まで攻め込んで来たのを知った高時は、これまで出し惜しみしていた嶋津を遂に出陣させようと近くに呼びました。
 高時は自ら嶋津に酌をして酒を勧め、無双の名馬といわれる「白浪」と銀の鞍を与え、嶋津を送り出しました。少々遅い気もしますが、最終兵器は最後の最後に出すものなのでしょう。幕府重鎮たちの期待を一身に背負って、嶋津は名馬「白浪」にまたがり、颯爽と出撃していきました。
 さて、嶋津は新田軍のど真ん中に向けて迷わず駆けていき、まさに戦闘開始かと思いきや、突然馬を降りました。皆が不思議がっていると、なんと嶋津は地面に座り新田軍に頭を下げ、
「降伏いたします」
と述べたのです。これには一同呆れ返るばかりでした。
 『太平記』はわざわざ紙幅を割いて、この嶋津四郎の寝返り劇について面白おかしく記しています。

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