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日本人の物語01311【室町/義持期】対馬属州化問題

交渉を一つ間違えば対馬の領有権をめぐって戦争になっていたかもしれない、という怖い話です。

 さて、明の呂淵は帰国したものの、朝鮮国の太宗が対馬を直接管理下に置くと通告してきた問題は未だ解決していません。今や対馬の運命は対馬守護・宗貞盛の双肩にかかっています。
 応永26(1419)年9月20日。宗貞盛は朝鮮国に印信の授与を願い出て恭順しました。印信とは「朝鮮国王之印」という印の記された文書であり、その授与を願い出るということは朝鮮国王に従属するという意志表示です。しかし太宗は、対馬島民を朝鮮に移住させる件について触れていないことを理由に、10月18日に更なる催促の書状を送り付けました。
 朝鮮と対馬が緊張感のある交渉を繰り広げていた頃、そんなことは知らない義持の送り込んだ使者が11月20日、朝鮮の富山浦に到着しました。使者は博多聖福寺の僧・無涯亮倪(むがいりょうげい)と商人の平方吉久(ひらかたよしひさ)です。彼らは12月14日に漢城(ソウル)に到着し、義持の国書を朝鮮国王・世宗(せいそう:1397~1450)に納めました。
 義持の国書は「貴国の安否を問い、仏典を求めたい」とだけ記したもので、応永の外寇には一切触れていませんでした。そして署名は「日本国王源義持」ではなく「日本国源義持」です。つまり明の皇帝から封じられた「日本国王」ではなくなったわけで、明との朝貢関係を終わらせたことを意味します。義持の真意は分かりませんが、応永の外寇は終わった出来事として触れないようにし、将来の良好な外交関係を求めたのかもしれません。
 国書が太宗ではなく世宗宛てであったことは、交渉を有利にしました。国王世宗は、父の太宗と違って対日融和派であり、対馬遠征にも反対していた人物だったのです。
 応永27(1420)年1月6日。朝鮮国王・世宗は大蔵経を日本に贈与することを快諾しました。貴重な大蔵経を渡すということは、日本をそれだけ重視してくれていることを意味します。
 このように、対馬と太宗の関係が極めて悪化している中、同時並行で進められた義持と世宗の交流は実に温和なものでした。まるで日本と対馬は別の国であり、太宗と世宗は別の国の王であるかのようです。
 しかし、太宗による対馬への侵食は刻一刻と進んでいました。閏1月10日、まさに義持の使者が朝鮮国を訪問中であるにもかかわらず、それとは別に宗貞盛の使者と称する時応界都(じおうかいと)という人物が朝鮮を訪れ、驚くべきことを述べました。太宗のいう「対馬を朝鮮の属州とする」という講和条件を承諾することを、彼は「口頭で」述べたのです。
 太宗の要求を丸呑みするとは、驚くべき事態です。果たして対馬は朝鮮国の領土となってしまうのでしょうか。

このあたりの交渉経緯については、もっと研究がなされても良いですし、もっと教科書に掲載されても良いような気がします。

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