見出し画像

日本人の物語00579【鎌倉前期】頼家の器

 頼朝の死を受けて、建久10(1199)年1月26日付けで長男・頼家が家督を相続し、2代目の「鎌倉殿」となりました。征夷大将軍に宣下されるのは建仁2(1202)年7月22日付けですが、この時点では御家人たちの間に
「征夷大将軍に正式に宣下されていなければ鎌倉殿とはいえない」
といった考えはないので、家督相続の時点で頼家を2代将軍(2代鎌倉殿と呼ぶべきかもしれませんが)とみなしてしまって問題ないでしょう。
 2代将軍頼家は16歳で鎌倉殿となったわけですが、どうも棟梁の器ではなかったようです。この時代の御家人たちは「一所懸命」というように、まさに命懸けで領地を守ろうとしているのに、所領の訴えを調べもせず適当に線を引いて
「ここを境界とせよ」
と言ったり、蹴鞠に明け暮れて政務を怠ったりしていました。双方の主張も聞かずいい加減に裁断されたのでは、土地を失った御家人の憤懣は溜まるばかりです。
 といっても、これは『吾妻鏡』の記述ですので、北条一族に都合の良いように事実を改竄されている可能性もあります。
 見かねた御家人たちは、頼家の権限を狭めるため、4月12日に
「今後は鎌倉殿が訴訟を直接に裁断することを禁じ、我々13人の合議により決定することとしたい」
と取り決めました。これを「十三人の合議制」といいます。
 一方、翌4月13日、頼家は彼らに対抗するかのように
「小笠原長経(おがさわらながつね:1179~1247)、比企三郎(ひきさぶろう:?~1203)、比企時員(ひきときかず:?~1203)、中野能成(なかのよしなり)が狼藉を働いても、民はこれを止めてはならない。またここに挙げた者以外は、許可がなければ頼家の御前に参上してはならない」
と発令しました。
 これはもう、めちゃくちゃな命令です。頼家のお気に入りの4人は何を仕出かしてもお咎めなしで、かつ頼家と謁見できるのはこの4人だけだというのです。16歳の少年将軍がわがまま放題に振る舞っているように見えます。(ちなみにこの頼家のお気に入りリストは後に4人から6人に増えます。)
 頼家の権限を弱めたい13人組と、頼家お気に入りの4人組。鎌倉殿襲名から3ヶ月足らずで、幕府は早くも空中分解寸前といった様相を呈しています。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集