日本人の物語01151【南北朝後期】石橋和義失脚/大内弘世復帰
最近幕末の本を多く読んでおりまして、「早く幕末を書きたいなあ」と思ったりします。
太平記はここから、南朝方に寝返った大内弘世、山名時氏、仁木義長たちが次々と北朝方に戻ってくる様子を描写していますが、その話をする前に、苦林野・岩殿山の戦いと並行して発生していた石橋和義失脚事件を取り上げなければなりません。
石橋和義は足利家の分家の生まれです。和義の父の代までは足利姓を名乗っていました。尊氏と和義は4代祖先が同一人物なので、そこそこ近い縁戚関係といってよいでしょう。和義は細川清氏が若狭守護を解任されたことを受けてその後任となり、清氏攻めでも功を挙げていました。
ところがその和義が、斯波高経と佐々木道誉の対立に巻き込まれてしまいます。かねてより道誉は娘を斯波高経の三男・氏頼に嫁がせて同盟を組んでいましたが、斯波高経が三男・氏頼よりも四男・義将を優遇したことで道誉はひどく怒り、佐々木・斯波同盟は決裂してしまいました。そして石橋和義は道誉の支援する三男・氏頼方に与したため、斯波高経からずいぶん嫌われてしまったようです。
正平18/貞治2(1363)年8月。斯波高経の計略により和義は若狭守護を解任され、高経自身がその後任となりました。和義は全ての官職を失って奥州へと下り、その後は塩松(福島県二本松市)を拠点として活動したようですが、没年すら明らかではありません。
足利一族の重臣として幕閣の筆頭まで務めておきながら、和義の最期は呆気ないものでした。歌人としても知られ、
「聞くだにも 危ふき淵の 薄氷 臨むに似たる 世を渡る哉」
などの歌が残っていますが、これこそ栄光と没落を経験した和義らしい歌と思われます。
さて、翌9月には南朝方の大内弘世が北朝に帰順するというイベントがありました。何とも忙しい年です。
大内弘世といえば、直冬と連携して南朝方についた周防・長門(山口県)の武将ですが、幕府はどうにかしてこの弘世を取り込もうと画策していました。幕府が
「周防・長門の所領を安堵する。さらに長門守護に就任させる」
との条件で和睦を提案したところ、弘世はこれに飛びつきました。
ところが、これに怒ったのが現職の長門守護・厚東義武(こうとうよしたけ)です。厚東は憤激して長門を飛び出し、そのまま征西将軍府に仕え、南朝方となってしまいます。
幕府から九州攻めを命じられた弘世は、厚東・菊池連合軍のいる豊後に攻め込みますが、そこで菊池武光軍に包囲され、やむなく降伏しました。このことが知れ渡ると弘世の名誉が地に堕ちることから、弘世は後に幕府要人に金品をばらまき、このスキャンダルを内密にするよう働きかけたといいます。
