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日本人の物語00190【飛鳥】鎌足の死と新人事

 天智天皇8(669)年10月15日。中臣鎌足が病の床につきました。天智天皇が見舞ったところ、鎌足は
「何の功労もなかったから、葬儀は手軽にしてほしい」
と述べました。天智天皇はその謙虚さを褒めたたえたといいます。
 天智天皇は大海人皇子を遣わし、鎌足に対して
・大織冠(たいしょっかん)の冠位
・大臣の位
・藤原の姓
を与えました。大臣の位はもっと早くに与えてあげても良かったように思われます。
 これによって中臣鎌足は藤原氏の祖となったのですね。ちなみに、このとき鎌足以外の中臣氏は中臣姓のまま残ることになりました。鎌足の子孫のみが藤原を名乗ることができたのです。
 この翌日、鎌足は死去しました。これによって、天智天皇と大海人皇子をとりもってくれる有力者がいなくなり、兄弟仲はますます険悪になっていきます。
 天智天皇9(670)年2月。日本最初の戸籍として「庚午年籍(こうごねんじゃく)」が作られました。これによって徴税がやりやすくなるわけですが、この戸籍作成が史実かどうかは諸説あります。
 天智天皇10(671)年1月5日。天智天皇は新たな人事を発表しました。
 まず、太政大臣(だじょうだいじん又はだいじょうだいじん)に大友皇子(おおとものみこ:648~672)が就任しました。これは天智天皇の子です。「太政大臣」という役職が現れるのはこれが初めてのことです。みんなどんな役職なのか分からなかったことでしょうが、左大臣や右大臣よりも上だということだけははっきりしていました。
 左大臣には蘇我赤兄。あの有間皇子を讒言(ざんげん)によって葬った赤兄です。
 右大臣には中臣金(なかとみのかね:?~672)。これは新キャラですね。その後、さほど活躍した気配がありません。
 御史大夫(ぎょしたいふ)という大臣を補佐する官職には、蘇我果安(そがのはたやす:?~672)と巨勢人(こせのひと)と紀大人(きのうし:?~683)の3人が就任しました。この「ひと」とか「うし」といった名前は本当にひどいですね。完全な捨てキャラです。
 気になるのは、大海人皇子がいないことです。これだけの実力者を無役にしたということは、つまり皇位を弟ではなく子の大友皇子に継がせるための布石と考えられます。
 しかし、この人事は大きな波紋を呼びました。というのも、天智天皇が後継者にしようと考えた大友皇子は、本来天皇に即位し得る身分ではなかったのです。大友皇子の母は、伊賀采女宅子娘(いがのうねめやかこのいらつめ)という身分の低い娘であり、天皇の条件として母親の身分が重視された飛鳥時代にあっては、不適格と考えられていたのです。

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