日本人の物語00288【平安中期】土佐日記 出立
まずは、紀貫之が醍醐天皇崩御後間もない時期に執筆したとみられる『土佐日記』について取り上げておきましょう。
延長8(930)年、貫之は念願の国司(現在でいうところの県知事)に任命されることとなりましたが、その行き先は土佐国(高知県)でした。
土佐といえば当時は罪人を流す先として選ばれることが多い土地で、都育ちの貫之にとって気乗りしない任地だったと思われます。
土佐守に着任した貫之は、仕事の合間をぬって『新撰和歌集』の編纂を行いました。これは京にいる間に醍醐天皇から命じられた仕事で、『古今和歌集』のうち特に優れた和歌だけを抜き出すという作業でした。
しかしこの作業を開始した直後、貫之のもとに醍醐天皇崩御の知らせが届きます。さらに承平3(933)年には藤原兼輔が死去し、貫之は頼みにしていた庇護者を相次いで失ってしまいます。
承平4(934)年12月。貫之はようやく土佐守の任期を終え、京に戻ることとなりました。土佐国府(高知県南国市)からの帰り道はほとんどが海路で、その55日間の旅の様子を記したものが有名な『土佐日記』です。
貫之はいたずら好きでした。日記を書くに当たって、土佐守の一介の従者に過ぎない女性の立場を装い、さらには女性しか使わないひらがなを使って、
「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとしてするなり」
(男性が書くという日記というものを、女性である私も書いてみたいと思ったので書いています)
という文章で書き始めました。
この日記の中にはもちろん紀貫之自身も登場するのですが、なんと和歌には疎い偏屈な老人として描かれています。和歌に強い自負を持つ貫之は、あえて自身を和歌を知らない設定にしたのです。皮肉屋の貫之らしいアイデアです。
『土佐日記』には笑い話もあれば涙を誘う話もあって、チャプターごとに毛色が異なるのですが、何よりも多いのは愚痴です。例えば、船頭が天気を読み間違えて引き返さざるを得なくなった場面など、
「この舵取りは、日も得はからぬ乞食なりけり」
などと罵倒しています。
