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日本人の物語01040【南北朝前期】南北朝前期総括

「直義が死んで、観応の擾乱は終了」となれば話は簡単だったのですが、そうはならないんですよね。いやはや、歴史は複雑なものです。

 正平3/貞和4(1348)年1月30日から正平7(1352)年2月26日までを「南北朝前期」としてまとめて来ました。主として「観応の擾乱」と呼ばれる直義と師直の対決が始まったところから、双方が死ぬことで一旦決着をみたところまでを説明しました。
 対立のそもそもの原因については、山川教科書の的を射た見事な解説をそのまま転載しますと、
「鎌倉幕府以来の法秩序を重んじる直義を支持する勢力と、尊氏の執事高師直を中心とする武力による所領拡大を願う新興勢力との対立」
です。確かに直義は法秩序を重んじる頭の固いクソ真面目な男でした。一方の師直は、既存の価値観を物ともせず、実力が物をいう時代の寵児でした。
 尊氏党と直義党の対立はなかなか決着がつきませんでした。その原因は、双方の陣営が不利になったとみるやたちまち「南朝に降伏する」という禁じ手を用いた点にあります。尊氏党も直義党も南朝も、いずれも何らの一貫した思想も持たず、その場の窮地を切り抜けられれば何でもよいとばかりに、誰とでも無節操に手を組む集団となり果てたのです。(尊氏による南朝講和は、前述のとおり直義の政策を引き継いだ面もあるのかもしれませんが)
 この兄弟対決がもたらした最大の影響は、
「絶体絶命の状況に追い込まれていた南朝が息を吹き返した」
ということでしょう。南朝は思わぬ敵失によって滅亡を免れ、南北朝の動乱が当初の予想以上に長く続くこととなってしまったのです。
 この無節操な離合集散は、平成初期の政治的混乱を想起させます。
〇幕府を裏切った直義が南朝と手を結んだが、その直後、今度は直義に対抗するために幕府が南朝と手を組んだ。
〇自民党を裏切った小沢グループが社会党と手を結んだが、その直後、今度は小沢に対抗するために自民党が社会党と手を組んだ。
 どうでしょう。南北朝時代と平成初期の政治状況はそっくりだと思いませんか。まあ平成政治史は、その後小渕率いる自民党が再び小沢と手を組むので、ますます複雑なものかもしれませんが。
 さて、直義が死去したことで一見、この無益な兄弟争いは終わるかに思えました。しかし直義に深く私淑する養子の直冬、桃井直常、上杉憲顕らが健在ですし、斯波高経も尊氏を裏切った上、この後山名時氏らも南朝方に寝返ることとなります。彼らが直義の死後も直義党を名乗って活動し続けたため、観応の擾乱は10年以上も続くこととなるのです。

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