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日本人の物語00241【奈良】早良親王の祟り

 藤原種継暗殺事件に連座して皇太子・早良親王が死去したため、桓武天皇と皇后・藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ:760~790)との間に産まれた安殿親王(あてしんのう:後の平城天皇:774~824)が立太子しました。
 さて、この後なぜか桓武天皇の親族が次々と死去していきます。
 延暦7(788)年5月4日。桓武天皇の夫人・藤原旅子(ふじわらのたびこ)が死去しました。28歳でした。
 延暦8(789)年12月28日。桓武天皇の母・高野新笠が死去しました。没年齢は不明ですが、52歳の桓武天皇の母ですから、当時としては相当な高齢だったと思われます。
 延暦9(790)年閏3月10日。桓武天皇の皇后・藤原乙牟漏が死去しました。30歳でした。平均寿命の短い当時にしても、早すぎる死ですね。
 桓武天皇の周囲であまりに不幸が続いたため、役人たちは早良親王の祟りではないかと恐れ始めます。
 延暦11(792)年。皇太子・安殿親王の病が長引き、占いの結果「早良親王の祟りによるもの」と判明しました。桓武天皇は淡路に使者を派遣し、早良親王の霊に謝罪することとしました。
 しかし、謝罪の効果は全くみられませんでした。というのも、その年、葛野川(現在の桂川)が大雨で氾濫し、長岡京が冠水してしまったのです。「長岡京には早良親王の霊がいる。呪われている」として、庶民の間でも恐れられるようになりました。
 こうなってはもはや、長岡京は新都としての機能を果たすことはできません。側近の和気清麻呂は桓武天皇に、
「長岡京を捨てて新たな土地に遷都してはいかがか」
と建言します。
 清麻呂に誘われた桓武天皇は、遊猟と称して清麻呂とこっそり同道して、新たな都の候補地である山城国を現地検分しました。
 そして延暦13(794)年11月8日。ここに遷都することを決めました。千年の都となる平安京です。平安京が都に定められた元々の理由は、早良親王の霊から逃れるためだったのです。
 また、平安京は、桂川と鴨川に挟まれた広い盆地です。水が得られることと物流に便利だったことも決め手だったのでしょう。
 ここから先は、平安時代の稿に譲ることとして、最後に奈良時代を総括しておきましょう。

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