日本人の物語01192【南北朝末期】細川頼之包囲網
いま「古い大河ドラマを時代順に見る」というのを順次進めているのですが、戦国時代の作品が多すぎてなかなか進まなくなってきました。今は中井貴一主演の『武田信玄』を見ています。
天授4/永和4(1378)年は、畿内・九州ともに「一旦は幕府方に降ったはずの武将が再び南朝方に寝返る」という事件が発生しました。
まず九州では、今川了俊のもとに降伏したはずの島津氏久が再び反旗を翻しました。「降伏したのにまた寝返った」のではなく、そもそも偽装降伏だったようです。というのも、前年12月時点の了俊の書状で「氏久の降伏は時間稼ぎのための偽装だという噂がある」という内容のものが現存しているのです。
了俊は島津・菊池を相手に戦いながらも、その一方で明の皇帝から言われた倭寇対策にも手を伸ばしました。天授3/永和3(1377)年に高麗から来日した外交官・鄭夢周(ていむしゅう:1338~1392)と協議の上、翌天授4/永和4(1378)年6月に信弘(しんこう)という僧を始めとする兵69人を高麗に送り込み、倭寇を討伐したとの記録があります。九州制圧だけでなく、幕府の外交上の体面にも配慮している様子が窺えます。
同年9月29日には託磨原(たくまばる:熊本県熊本市)の戦いで、今川勢2万騎が菊池勢3500騎に敗れるという番狂わせ(数字は誇張でしょう)がありましたが、これが菊池勢にとって最後の勝利でした。今川優勢という状況は崩れません。
一方畿内では、11月2日に紀伊国にいた橋本正督が幕府に反旗を翻しました。橋本正督といえば楠木党の一員で、5年ほど前に幕府方に帰順したはずの人物です。天授元/永和元(1375)年8月には橋本正督が紀伊国の南朝軍を攻撃したとの記録もあるので、幕府への帰順自体は偽りではなかったのでしょうが、その後思うところあってまたもや南朝に身を投じてしまったようです。
11月2日の戦いで、紀伊守護・細川業秀(ほそかわなりひで)が大敗して淡路島に撤退しました。この細川業秀は頼之の又従兄弟あたりと考えられます。
12月、この事件を受けて義満は紀伊守護を細川業秀から山名義理に、和泉守護を楠木正儀から山名氏清に交代し、鎮圧に当たらせました。楠木正儀までもが更迭された理由は分かりませんが、正儀もまた寝返りそうな様子を見せていたのかもしれません。
山名義理・氏清兄弟は、まさに山名家の家督問題に干渉するため義満がえこひいきしていた武将でした(01188回参照)。この兄弟は見事に橋本軍を鎮圧します。
アンチ頼之派はこの紀伊での一件で大いに盛り上がりました。細川一族に属する業秀の失態は、頼之の失態とみなされたのです。
さらにこの年には、大和の国人領主・十市遠康(とおちとおやす)が興福寺の領地を押領するという事件が起こっており、10月9日には興福寺がまた春日神木を入洛させて、十市の討伐を幕府に要求してきました。
頼之は斯波義将・土岐頼康らを派遣して十市討伐に当たらせましたが、斯波も土岐も頼之への反感から、一切戦いを開始しようとしませんでした。
守護たちの反感を買った頼之は、徐々に追い詰められていきます。
