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日本人の物語01001【南北朝前期】鼓ヶ崎城の戦い 挑発

ここまでは南朝・北朝が別々の元号を用いていましたが、さらに北朝が分裂したので、これ以降は元号が3種類用いられるようになりますよ! もうぐっちゃぐちゃです。

 正平4/貞和5(1349)年12月27日。尊氏は九州に逃れた直冬に対する追討令を出しました。直義罷免に不服を訴えている直冬が今もなお従おうとしないので、遂に最終手段に出たのです。
 年が明けて正平5/貞和6(1350)年2月27日、尊氏の意を受けた北朝の崇光天皇は「観応」と改元しましたが、直冬はこの元号を使わず「貞和」を使い続けました。もちろん南朝方は「正平」を使い続けていますから、言わば天下は三分されたわけです。
・「正平」を使う南朝方: 脇屋義治・新田義興・新田義宗・北畠顕信・楠木正儀
・「観応」を使う北朝尊氏党: 足利尊氏・高師直
・「貞和」を使う北朝直義党: 足利直義・足利直冬
 そして九州ではなんと、少弐頼尚が直冬を娘と結婚させて、自分の屋敷に住まわせました。これによって九州もまた鼎立状態となったのです。
・「正平」を使う南朝方: 懐良親王と菊池氏(征西府)
・「観応」を使う北朝尊氏党: 一色氏
・「貞和」を使う北朝直義党: 足利直冬と少弐氏
 さらに中国地方でも、直義党の有力武士が現れました。石見国の住人・三隅兼連(みすみかねつら:?~1355)です。三隅は九州の直冬から命令を受けて幕府への反逆を計画していました。それを知った高師泰は、6月20日に都を発ってその鎮圧に向かいました。
 7月27日の暮れ頃、師泰ら幕府軍は三隅家家臣・沢顕連(さわあきつら:?~1350)が立て籠もる鼓ヶ崎城(島根県美郷町)に到着しました。
 城から沢顕連軍300騎が降りてきて、幕府軍に「川を渡れるものなら渡ってこい」などと手招きして挑発します。幕府軍は2万騎いるのに、ずいぶんな余裕ですね。
 幕府軍は川を見ながら、どこを渡ったものかと考えました。
「勝手も分からない急流を、はやる気持ちのままに渡っては溺死してしまう。夜になったら泳ぎの達者な者に浅瀬をよく調べさせ、明日にでも渡ろう」
と話し合っていると、森小太郎(もりこたろう)・高橋九郎左衛門(たかはしくろうざえもん)らが
「かつて宇治川の戦いで川を渡った足利忠綱は(00454回参照)、浅瀬を調べたりなどしていません。思うに、ここが浅瀬だからこそ、敵は真向かいに備えているのでしょう。私がそれを確かめましょう」
と言って、たった2騎で川を渡り、向かいの岸へ駈け上がりました。命知らずな者たちです。

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