見出し画像

日本人の物語01432【三山】琉球統一

琉球王国が出来上がりました。途中で王朝交代があるとはいえ、これが幕末まで続くのですから大したものです。

 中山王国を掌握し、さらに北山王国を滅亡させて勢いに乗った尚巴志でしたが、永楽19(1421)年に父を失いました。その翌年、自ら2代国王に即位します。
 琉球統一に向けて、残るは南山王国だけです。最後の南山国王・他魯毎との戦いが最後となります。
 それにしても、他魯毎(たるみい)とは不思議な名前です。これは一般的な男子を意味する「太郎」と、敬称の「もい」が合わさった言葉であり、現代風にいうと「太郎さん」という意味になります。
 他魯毎は横暴な性格で、酒色にふけって政治を疎かにしたなどと琉球王国の正史に書かれていますが、これは尚巴志を正当化するための脚色でしょう。史料を見ると明との朝貢貿易に積極的で、南山王国の最盛期を築いたとも評価できる人物と思われます。
 宣徳4(1429)年。尚巴志の命を受けた中山軍は、他魯毎の籠もる南山城を取り囲みました。他魯毎は按司たちの支持を完全に失っており、民心も離れていたので、もはや戦いになりません。他魯毎は城外に追放され、南山王国はここに消滅しました。これ以降、南山の按司たちも中山王国の配下に置かれたのです。
 他魯毎は城下の山巓毛(さんてぃんもう)で家族とともに自害したとも、逃亡したともいわれています。逃亡先は不明ですが、糸満市内に墓があります。
 ここに、沖縄本島は完全に統一されました。ここから450年に渡って続く「琉球王国」の歴史が始まったのです。琉球王国ではこの後、第一尚氏が7代、第二尚氏が19代に渡って国王の位に就くこととなります。
 尚巴志は、首里城を拡張整備し、王の城にふさわしい城に作り替えました。さらに安国山に花木を植え、中山門を建て、外苑をも整備しました。あわせて那覇港の整備を進め、明をはじめ日本・朝鮮・南方諸国との交易を盛んに行い、琉球の繁栄の基礎を築いたのです。琉球王国の正史には、「尚」という苗字は明の皇帝から授かったものと書かれていますが、明側の歴史書にはそのような話はなく、背の低い按司だったため「小按司(しょうあじ)」が訛って「尚巴志」になっただけではないかとの説もあり、はっきりしません。
 さて、沖縄本島の歴史について語ってきましたが、ここで宮古島にも触れておきたいと思います。
 宮古島は沖縄本島とは全く異なる文化圏を形成していました。その証拠に、14世紀末から15世紀に宮古島を統治していた豪族・与那覇勢頭豊見親(よなはせどとぅゆみゃ)は、宮古島から初めて中山王国に朝貢し、察度王から宮古島の首長に任じられたのですが、1388年に中山王国に朝貢したとき、互いに言葉が通じなかったため、3年かけて琉球語を学んだというのです。この時代、日本と琉球とで言語や文化が異なるのは理解できますが、琉球と宮古島でも言葉が通じないとは驚きです。

与那覇勢頭豊見親(よなはせどとぅゆみゃ)というのもすごい名前ですね。「とぅゆみゃ」は支配者という意味だそうで、「せど」は船頭という意味から来ている説が有力だそうです。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集