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日本人の物語01314【室町/義持期】甲斐守護をめぐる争い

もう「戦国時代」といってもよいくらい全国あちこちで戦が起きていますね。実際に戦国時代と呼ばれているのは西国では1493年(研究者によっては1467年)から、東国では1487年(研究者によっては1455年)からなのですが。

 義持が病に倒れている間、東国では持氏と禅秀残党との抗争が続いていました。
 応永27(1420)年3月。龍子山城(たつごやまじょう:茨城県高萩市)の里見基宗(さとみもとむね)が持氏への反乱を起こしました。常陸国内で起こった反乱ですから、常陸守護で持氏派に属する佐竹義人が鎮圧すべき役割を担います。義人は家臣の小場惟義(おばこれよし:?~1420)を鎮圧に向かわせましたが、龍子山城はなかなかの堅固な山城で、4月1日に小場惟義は戦死してしまいます。
 その後、義人は更なる派兵を行い、どうにか里見氏を降伏させることができましたが、どうも関東での持氏派と禅秀残党の勢力は拮抗しているように見えます。
 持氏は禅秀派を根絶やしにすべく、ますます躍起になりました。7月20日には禅秀の子息を探し出して殺害するよう命じています。
 9月になると、持氏は甲斐国に軍を派遣しました。甲斐国は当時揉めに揉めまくっていたわけですが、その経緯をここで説明しておきましょう。
 甲斐守護人事をめぐっては、幕府方が武田信元、持氏方が逸見有直を充てようとして揉めたものの、最終的に持氏が信元の守護就任を渋々認めたところまでお話ししました。
 詳細な時期は不明ですが、この頃にその信元が病没してしまいます。信元には子がおらず、甥の信重(のぶしげ:1386~1450)・信長という兄弟がいるだけです。信長は禅秀の乱に加担していた人物ですが、信重は在京しており無関係でした。
 ここから三つ巴の争いが始まりました。
 持氏はもちろん、今度こそ逸見有直を甲斐守護に就任させようと動き出します。
 一方、幕府は京に住む武田信重こそ後継にふさわしいとして、甲斐守護に任命させる方針を明らかにしました。甲斐守護の任命権は鎌倉府にあるので、あくまで幕府は鎌倉府に推挙したという形ですが、持氏にとっては気に入らない干渉だったでしょう。
 さらに、甲斐に住む武田信長は、守護代の跡部明海(あとべめいかい)と図って息子の伊豆千代丸(いずちよまる:後の武田信高:1416~1480)に家督を継承させました。家督継承と守護職継承は本来一致するものなので、いち早く伊豆千代丸の守護就任に向けて布石を打った格好になります。
 持氏・幕府・信長の三つ巴の争いは、さらに複雑化しました。信長を支援していたはずの跡部明海が伊豆千代丸を傀儡として操ろうとしたため、これに立腹した信長と跡部の対立が始まったのです。三つ巴どころか四つ巴です。
 持氏が軍を甲斐国に派遣したのは、こうした複雑な情勢下のことでした。目的は武田信長の追討です。結局、甲斐守護の後任はなかなか決まらず数年間空席となりました。

「守護が空席」というのは混乱の元とは思うものの、ひどいときには「自称守護」が2人いるケースもあります。

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