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日本人の物語00743【鎌倉末期】元弘の騒動

 文観・忠円・円観の3人の流罪が決まった後、今度は後醍醐天皇の側近である日野俊基が元徳3(1331)年7月に捕縛されました。
 正中の変の際には穏便に事を運ぼうとしていた得宗・北条高時でしたが、今回はそうも行きそうにありません。というのも、持明院統から高時に
「天皇の関与は明らかである。真相究明の措置が必要ではないか」
との進言があり、側近である内管領・長崎高資もまた、
「正中の変で天皇に譲位させておくべきだったのに、その処置が緩やかだったため陰謀が続いたのです。帝を遠国に移し、尊雲法親王は流罪とし、日野資朝・俊基は斬るべきでしょう」
と進言してきたのです。
 もう一人の側近である政所執事の二階堂道蘊は、
「そんなことをすると、延暦寺を敵に回すことになります」
と反対しましたが、結局長崎高資の意見が通ることとなりました。とはいえ、これら後醍醐天皇の配流や日野資朝・俊基の斬首はだいぶ後のことになります。
 このように幕府の決定権は長崎高資に握られていたわけですが、得宗・北条高時と内管領・長崎高資とは相当に険悪だったようです。
 『保暦間記』には「高資おごりのあまり、高時が命に従わず」と書かれており、つまり高資はおごりたかぶった挙句、高時を蔑ろにしていたというのです。それを不服に思った高時は、遂に御内人の一人・長崎高頼(ながさきたかより)に高資の暗殺を命じます。長崎高頼とは高資の叔父に当たる人物です。どうやら長崎家は高時派とアンチ高時派とに分裂していたようですね。
 しかし高時による高資暗殺計画は、事前に露見してしまいます。元徳3(1331)年8月6日、高資に詰め寄られた高時は
「私は知らない」
とうそぶき難を逃れましたが、実行犯の高頼は奥州に流罪となってしまいました。この事件を「元弘の騒動」といいます。
 そして、8月9日に後醍醐天皇は元号を「元弘」と改元しました。この騒動は本来「元徳の騒動」というべきところですが、なぜか「元弘の騒動」と呼ばれて定着しています。
 なお、この後、後醍醐天皇が幕府に反旗を翻すため、幕府方はこの改元を認めず「元徳」を使い続けることとなります。これ以降、例えば西暦1331年を表すときは後醍醐方の「元弘元年」と鎌倉幕府方の「元徳3年」を併用し、「元弘元/元徳3(1331)年」と表記することとします。

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