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日本人の物語01140【南北朝後期】山名勢再起 宮兼信の気概

「宮」とは変わった苗字ですが、たまに見ますね。

 山名勢の進軍のうち、残る備後国の状況を見ていきましょう。
 ④備後
 備後へと進軍した山名勢は、富田直貞(とだなおさだ)が率いる2千騎でした。富田直貞は月山富田城(島根県安来市)を拠点とする武将です。
 富田が幕府方・宮兼信(みやかねのぶ)の守る亀寿山城(かめじゅやまじょう:広島県福山市)を攻めようとしていたところに、石見国に潜伏していた南朝方・足利直冬が500騎ほどでやって来ました。
 直冬にとっては、このまま富田と共に亀寿山城を攻めてもよいところですが、せっかくの機会なので敵を寝返らせて味方を増やしたいと考えたのでしょう。宮兼信に使者を立てて、
「今もし我々の味方に加わって忠義を尽くすならば、所領についてはご希望のままだ」
と寝返りを薦めました。
 宮兼信は直冬の使者としてやって来た僧侶に食事を出して迎えつつ、
「天下に一人も宮方(南朝方)がいなくなり、直冬殿が頼りとする人が全くいなくなったときに『頼む』とお聞きしたならお引き受けすることもあるかもしれません。しかし今は近国の者たちの中に直冬殿の味方は数多くおりますから、お味方するつもりはありません」
と述べて断りました。余程困ったならば助けてやるが、そうでない限りは南朝の味方はできないというわけで、なかなか気概のある答えです。さらに兼信は
「そもそもこのような類いの使者であれば、しかるべき武士を立てて行うべきものでしょう。僧が使者となるのは理解できません。僧のふりをして、夜討ちを手引きするためにこの城の様子を偵察しに来られたのでしょう。本来ならあなたの首をいただいて路頭に掛けたいところですが、今回はこの城の様子をとくと見せた上でお返ししましょう」
と言い放って去っていきました。僧は今にも殺されるかと震えながら逃げ帰りました。
 その後、宮兼信は
「使者が帰った後、直冬殿はきっと攻め寄せてくるだろう。逆にこちらから攻めてやれ」
と言って、息子の氏信(うじのぶ)に500騎をつけて直冬の陣に攻めかけました。直冬の軍は敗れて散り散りとなってしまいます。これをみた富田も力を落とし、領国の出雲に帰ってしまいました。
 この後、直冬は何度も宮兼信と戦いますが、一度も勝てなかったといいます。直冬の情けなさに呆れた人が、こんな落首を書きました。
「直冬は いかなる神の 罰にてか 宮にはさのみ 怖じて逃ぐらん」
 直冬が「宮」に勝てないのは神罰のせいではないかというのです。「宮」が神社の意味もあることを用いた駄洒落です。

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