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日本人の物語01288【室町/義持期】101代称光天皇

第101代天皇まで来ました。今上天皇は126代ですから、これで日本史の5分の4を書き終えたことになるはずなのですが、実際には5分の1にも達してなさそうですね。

 南朝方の後亀山法皇が出奔し、南朝方の不満をよそにいよいよ北朝内での譲位が行われる準備が整ってきました。
 応永18(1411)年11月25日。後小松天皇の長男・躬仁王に親王宣下がなされました。躬仁王は11月28日に元服し、その加冠役は内大臣にして征夷大将軍である義持が務めました。明らかに即位の準備です。
 応永19(1412)年3月16日。室町幕府管領が畠山満家から細川満元(ほそかわみつもと:1378~1426)に交代となりました。万里小路時房の日記『建内記』によると、畠山満家は「文字に疎く無骨」である一方、細川満元は教養豊かだそうです。この人事は即位儀礼を見据えてのことと考えられます。
 そして8月29日、満を持して後小松天皇から躬仁親王への譲位が行われました。称光天皇の誕生です。かくして明徳の合一における「両統交互」の約束は反故にされました。南朝方は相当に怒ったはずですが、味方がなかなか集まらなかったらしく、彼らが武力に訴えるのは3年も先のことです。
 さて、譲位をもって元号が改まるのが慣例ですから、朝廷は改元を打診しますが、幕府はこれを許しませんでした。義満時代に元号を「洪徳」にするか「応永」にするかで揉めた経緯があり、義満はこれ以降の改元を禁じることで不満の意を示していたわけですが、そのトラブルが未だにくすぶっていたものとみられます。義持は義満時代の政策をことごとくひっくり返した人間ですから、改元も認めてくれそうな気はしますが、どういうわけなのでしょう。
 改元は認められなかったものの、義持と後小松上皇との関係は全体的には良好だったように見受けられます。譲位から間もない9月14日、義持は弟の義嗣を院司(いんのつかさ)として上皇に仕えさせました。義嗣はこの前年に従二位・権大納言に昇進していましたから、上皇への気遣いとしては十分でしょう。
 義持は義満と異なり、公家に対しても十分な配慮を見せました。9月27日、二条持基(にじょうもちもと:1390~1445)が任大納言の拝賀のため三条坊門第の義持を訪ねるべく準備していると聞き、義持は側近の裏松重光に
「絶対にお止めせよ」
と指示しました。将軍への拝賀は義満時代に慣習化されたものですが、義持は摂関家からの拝賀はあまりに恐れ多いとして、断固として辞退したのです。あくまでも天皇家と摂関家を立てようとする姿勢がみられます。

毎日、アップ作業とともに「市町村索引」「人名索引」のアップデート作業も行っているのですが、人名索引のアップデートは意外に時間がかかって大変です。数日分まとめてやった方が効率的かもしれないな。

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