日本人の物語00269【平安前期】応天門の変 伴善男逮捕*
応天門の放火事件から5ヶ月が経ち、貞観8(866)年8月となりました。
ここで、京に住む下級役人・大宅鷹取(おおやけのたかとり)と生江恒山(いくえのこうざん)という2人が登場します。この二人は、近所に住んでいながら犬猿の仲でした。
ある日、大宅鷹取の子供と生江恒山の子供との間で、喧嘩が起こります。
所詮は子供同士の喧嘩なのに、これを見た生江恒山が、なんと大宅鷹取の息子を殴りつけてしまいます。子供の喧嘩に親が出てきて……というのは現代でもよくあることですが、実に大人げないですね。
大宅鷹取が止めに入ると、生江恒山は
「下っぱ役人のくせに何を言うか。俺の主人は大納言だぞ」
と、伴善男大納言に仕えていることをもって黙らせようとしてきました。平安時代にもこんな最低な奴がいたのですね。
大宅鷹取は我慢できず、言うまいと思っていたことを大勢の見物人がいる前で口走ってしまいます。
「大納言が何だ。俺が少し秘密を暴露すれば、お前の主人、伴善男の首は飛んでしまうんだぞ」
この大宅鷹取の言葉は、あっという間に京中に広まり、朝廷に達しました。
8月3日、大宅鷹取は朝廷に呼び出され、尋問を受けました。そこで、
「これまで秘密にしていたが、実は私は放火犯を目撃していました」
と言い出し、伴善男を告発したのです。伴善男は源信を陥れるために応天門に火をつけ、自作自演を図ったというわけですね。
伴善男は直ちに逮捕され、取調べを受けることとなりました。伴善男は終始無実を主張しますが、伊豆に流罪となり、2年後に同地で没することとなります。
無実を主張したまま没した者は、怨霊となって時の政権を苦しめる……というのが定番の流れですが、伴善男の怨霊については実にユーモラスなエピソードが残されています。
事件後に都で風邪が流行したのですが、そのとき都に流れた噂話によると、夜中、町を行く人の前に伴善男の怨霊が現れ、
「私は無実の罪で流罪となり、都を恨んで死んだ。死病を流行させてやろうと思ったが、都には恩義もあるので、咳の病にとどめておいてやったのだ」
と述べたというのです。
さて、応天門に火をつけた真犯人は本当に伴善男だったのでしょうか。今は藤原氏の陰謀だったのではないかとも言われており、真相ははっきりしません。
この事件は『伴大納言絵詞(ばんだいなごんえことば)』という絵巻物に描かれているのですが、その美術的価値が高く評価され、国宝に指定されています。現在は出光美術館(東京都千代田区)で実物を見学することができます。

