日本人の物語00559【鎌倉前期】富士の巻狩
建久4(1193)年5月から6月にかけて、頼朝は多くの御家人を富士に集めて、巻狩(まきがり)を行いました。巻狩とは、猪や鹿を仕留める狩りのことですが、軍事訓練的な意味合いもあったのでしょう。思うに、敵が全て滅びたため御家人たちは武勇をアピールする場を失ってしまい、そのストレスを掃き出す方法として、大々的な巻狩を行うことになったのではないでしょうか。
この巻狩が行われたのは、駿河国富士山麓の藍沢(静岡県御殿場市・裾野市一帯)と富士野(静岡県富士宮市)です。この巻狩をめぐるエピソードがいろいろ残っているので、ご紹介していきましょう。
巻狩の期間中のある日の夕方、手負いの猪が突然頼朝に向かって突進してきました。将軍の危機を咄嗟に救ったのが、そばに控えていた仁田忠常(にったただつね:1167~1203)です。忠常は勇敢にも猪に飛び乗ったかと思うと、刀を何度も突き刺してこれを仕留めました。
5月22日には、頼朝と政子の長男・頼家(よりいえ:1182~1204)が鹿を射止めました。当時11歳ながら、頼朝は頼家を後継者として育てていましたから、その成長ぶりに頼朝は大いに喜びました。御家人たちは
「政子さまにも知らせよう」
と鎌倉に遣いを出し、頼家の功を政子に知らせましたが、政子の反応は
「武将の嫡子が鹿や鳥を射たところで稀有なことではない」
という冷淡なものでした。
さらに5月27日、巻狩の最中、頼朝の前に突然大きな鹿が走ってきました。弓の名手である工藤景光(くどうかげみつ)が進み出て、3本の矢を放ちますが、どれも命中しませんでした。景光は
「自分は11歳のころから狩猟を生業として70余年になりますが、未だかつて獲物を仕留められなかったことはありません。あの大鹿は、もしや山神のお乗りになる鹿ではないでしょうか。それに向けて矢を放った私の命運はもはや尽きたと思われます」
と述べ、事実、その日の晩に発病して倒れてしまいました。
この怪異現象に頼朝は驚き、巻狩を中止しようと提言しますが、御家人たちが
「その必要はないでしょう」
と進言し、結局巻狩は継続されたといいます。
