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日本人の物語00276【平安前期】寛平の治

 寛平3(891)年1月13日。最高権力者だった藤原基経が死去しました。54歳でした。
 さて、基経の子の中で特に重要なのは、次の3人です。
・長男 藤原時平(ふじわらのときひら:871~909)
・次男 藤原仲平(ふじわらのなかひら:875~945)
・四男 藤原忠平(ふじわらのただひら:880~949)
 これら3人はいずれも若く、基経の地位を引き継ぐほどの権力はありませんでしたから、宇多天皇としてはようやく自らの意志を政治に反映させられる機会がやってきたわけです。宇多天皇はさっそく、基経派に属していた藤原佐世を陸奥守に左遷し、前々から着目していた讃岐守・菅原道真を蔵人頭に登用しました。
 さて、菅原道真はいつ頃から政府内で注目される存在となっていったのでしょうか。
 遡ると、元慶6(882)年に道真の名が公式歴史書『日本三代実録』に登場しています。というのもこの年、ちょっとした事件が宮中を賑わせました。大納言・藤原冬緒(ふじわらのふゆお:808~890)を非難する内容の詩が匿名で掲げられたのです。犯人探しが始まりますが、この詩の出来があまりに良かったため、当時文章博士であった道真が疑われることとなったというのです。道真は下級役人の子でしたが、この頃から漢詩の名手として有名だったのですね。結局犯人は判明せず、道真に処罰が下ることはありませんでしたが、道真を犯人扱いする声はやまなかったといいます。
 その後、道真は仁和2(886)年に讃岐守に就任しますが、讃岐では道真の善政が有名になり、他国から讃岐に入ってくる者が多数いたといわれています。この頃から宇多天皇は道真に注目し始めていたのでしょう。
 さて、道真を登用した宇多天皇の親政を「寛平の治」と呼びます。具体的に何をしたのかを見ていきましょう。
 まず、寛平6(894)年、菅原道真は遣唐大使に任命されましたが、道真は「唐は乱れており、もはや学ぶものはない」と述べ、唐への渡海は不要と進言しました。遣唐使は舒明天皇2(630)年以来、計20回(諸説あり)派遣されたものですが、この進言により廃止されます。これにより日本は唐の文化の影響から自由になり、「国風文化」と呼ばれる日本独自の文化を作り出すこととなります。ちなみに唐は延喜7(907)年に滅亡しており、遣唐使を派遣していたら戦乱に巻き込まれていたかもしれませんね。危なかったです。
 さらに寛平8(896)年、道真は「厳しく税を取り立てるだけでは意味がない」と検税使を廃止しました。その代わりに各地に問民苦使(もみくし)を派遣し、民衆の暮らしぶりと土地問題の実態を調査しました。
 いずれも、慣例通りに仕事をするのではなく、課題をしっかりと見極め、それに沿った仕事をしようというものです。実に道真らしい取組ですが、宇多天皇の支援があってこそなされた行政改革だと考えられます。

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