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日本人の物語00353【平安中期】道長死す

 治安元(1021)年、道長の娘・嬉子(よしこ:1007~1025)が皇太子・敦良親王の妃となりました。
 道長は既に3人の娘を后に立てていますが、それに飽き足らず、次の天皇をも手中に収めようとしているわけです。
 同年5月25日。道長の政敵だった藤原顕光が死去しました。死の直前まで道長への恨み言を口にしていたそうです。死後、様々な祟りを起こしたため「悪霊大臣」と呼ばれるようになります。
 万寿2(1025)年8月3日。嬉子が親仁親王(ちかひとしんのう:後の後冷泉天皇:1025~1068)を出産します。赤子は無事に育ちますが、嬉子自身は出産の直後に死去してしまいます。僅か4年間の結婚生活でした。
 道長は娘の死に相当ショックを受けたようですが、残念ながらこの時期の道長の日記は残っていません。実資の日記によれば、嬉子の初七日の法事で道長は絶えず涙を流し、その言葉はよく聞き取れなかったといいます。相当に落ち込んでいる道長の姿が読み取れます。
 万寿3(1026)年12月9日。今度は後一条天皇に嫁いでいた威子が、章子内親王(あきこないしんのう:1027~1105)を出産しました。
 以前、妍子が禎子内親王を出産したときは、道長は「男子じゃないのか」とひどく不機嫌だったとのことですが(00346回参照)、今回の道長は日記に
「安産で良かった」
と記しています。嬉子の死にショックを受け、赤子の性別よりも母体の無事を祈るようになったのでしょう。
 同年。道長邸で催された法会で、ちょっとした争いが起こります。道長の四男である藤原能信(ふじわらのよしのぶ:995~1065)が、頼通を侮辱したのです。
 妾腹の能信が、嫡子・頼通を嫉妬して対抗意識を燃やしたものと思われます。この能信の頼通に対する敵意が、この後の藤原氏に内紛をもたらすこととなるので、能信の名はぜひ記憶にとどめていただければと思います。
 翌万寿4(1027)年9月14日、妍子が死去しました。道長にとっては、僅か2年の間に2人の娘に先立たれたことになります。そして12月4日、道長は2人の娘を追うようにして死去しました。62歳でした。
 道長の死により、藤原氏の命運は嫡子たる頼通に託されることとなりました。しかしその頼通の時代が、摂関家藤原氏が輝く最後の時代となるのです。

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