日本人の物語01343【室町/義教期】義教最初の家督介入
義教の非道を早く書きたくてうずうずしていますが、しっかり順序を踏んで時系列通りに書いていきます。
新将軍・足利義教を征夷大将軍に就任させるべく、満済は走り回りました。
満済と義教は、応永35(1428)年4月11日と14日の2日間で6つのハードルを超えました。11日に
・御判始(ごはんはじめ): 初めて文書に花押を押す行事
・評定始(ひょうじょうはじめ): 初めて宿老たちと会議を行う行事
・乗馬始(じょうばはじめ): 初めて乗馬を行う行事
を実施し、14日に
・沙汰始(さたはじめ): 初めて実務者たちと会議を行う行事
・的始(まとはじめ): 初めて射的を行う行事
・御一級(ごいっきゅう): 従四位下への昇進
です。これだけの行事を終えなければ征夷大将軍にはなれないのです。
大仕事を終えた満済は、日記に
「2日間で6つの大仕事を終えた。上手くいって良かった」
と述べ、ホッと一息ついています。
これだけの功労者満済に、朝廷もそれなりの待遇で応じました。4月18日に准后(皇后と並ぶ位)を宣下したのです。准后というと北畠親房が有名ですが、実は平清盛や足利義満らも宣下されています。
さて、これだけの行事を終えた義教は早期に征夷大将軍になりたいと望んだそうですが、そのためには烏帽子姿で就任式に臨まねばなりません。「髪が伸びるのを待つ」という形式論理のせいで、将軍宣下はいたずらに遅れていくこととなります。
義教は将軍宣下を待たずして将軍らしく振る舞おうとします。なんと有力守護の家督継承に介入しようとしたのです。4月23日、山名時熙が重体となった折、時熙がかねてより三男・持豊(もちとよ:後の山名宗全:1404~1473)に家督を譲ろうとしていたにもかかわらず、義教は次男・持熙(もちひろ:?~1437)を推薦しました。
その後、時熙が回復したため家督継承問題は持ち越しとなったのですが、最もセンシティブな案件である守護の家督継承という問題に、将軍に内定したばかりの(まだ就任すらしていない)義教が早くも介入しようとしたのは、前途が危ぶまれる出来事でした。
家督継承への介入は、義満はたびたび行っていましたが、義持はその晩年にしか行わなかった(しかも失敗した)ことでした。しかし義教はこの後、義満以上の介入を次々とやってのけるのです。
山名宗全こと山名持豊が初登場しました。応仁の乱が近づいてきてますね。
