日本人の物語01657【室町/西国/六角征伐】将軍権力復活なるか
近江情勢、複雑過ぎるので何度でも復習します。あと、復習を書いておかないと作者の私も忘れてしまいそうです。
六角征伐の説明のために、少し時間を遡って近江情勢を見ていきましょう。
応仁の乱における近江の対立構造は
東軍: 京極孫童子丸・京極政経・多賀高忠・六角政堯
西軍: 京極乙童子丸(高清)・京極政光・多賀清直・六角高頼
でしたね。京極政経は六角高頼に大敗し、出雲へと下っていったのでした。
その後の西軍方の動向は次のとおりです。
・京極政光が応仁の乱の最中に病死し、乙童子丸は後ろ盾を失う
・西軍の敗北という形で応仁の乱が終結し、六角高頼は文明10(1478)年2月に赦免される
・多賀清直は文明11(1479)年8月21日に死去し、子の宗直(むねなお:?~1487)が家督を継ぐ
西軍方の勢力が大きく削がれ、不利を悟った旧西軍方・多賀宗直は多賀高忠の呼びかけに応じ、文明13(1481)年に和解しました。近江の平和が取り戻されたということで、多賀高忠は文明18(1486)年7月に主君・京極政経を近江に迎えました。
ところがその直後の8月17日、キーマンであった多賀高忠が病死してしまいます。これ見て多賀宗直や六角高頼ら旧西軍方は、和解を破って再び政経に逆らい始めました。
多賀高忠という強力な味方が既に他界しているものの、京極政経は善戦し、文明19(1487)年5月1日の国友河原(滋賀県長浜市)の戦いで多賀宗直を自害に追い込みました。残る敵は六角高頼だけです。
こうした状況下で、7月、奉公衆の一色政具(いっしきまさとも)が「六角高頼に所領を押領された」と幕府に訴えました。一色政具は義尚お気に入りの側近だったため、
「この訴訟は将軍に取り上げてもらえるかもしれない」
との期待が高まり、他の者も勢いに乗って次々と六角高頼を訴えます。
訴訟を知った義尚は、奉公衆らの期待通り、六角高頼を征伐する旨を発表しました。その名目は「寺社本所領や将軍直臣領を押領したこと」ですが、当時荘園を押領することは当たり前で、むしろ武士は皆それで食べていたわけですから、「それだけでわざわざ討伐するの?」と周囲は大いに不思議がったことでしょう。
義尚が六角征伐を決めた理由は、父への対抗心にありました。義尚は、応仁の乱を止められなかった父こそが幕府凋落の原因だと思っていたようです。それだけに、守護同士の対立を静観するのではなく、自ら出陣して解決することで将軍権力を再生できると信じていたのでしょう。六角征伐はそのためのデモンストレーションでした。
また、義尚は妙に秘密主義なところがあり、近江への出陣の日は内密とされ、義尚と政元の2人しか知らない状態に留められたといいます。2ヶ月ほどの準備期間を経て、9月12日に義尚が大軍を率いて近江へと進軍していきました。
トップが過度に秘密主義でいると、下の者はついてこないと思います。まあ奇襲をかける場合は秘密にした方が良いかもですが。
