日本人の物語00508【平安末期】屋島の戦い 継信の最期
元暦2(1185)年2月19日。屋島付近に到着した義経一行は、高松の民家に放火をして回ります。これを見た屋島の平家軍は、
「南方から大軍が攻め寄せてきたぞ」
とひどく恐れ、安徳天皇を船に乗せ、沖へと漕ぎ出しました。実際には義経軍はほんの150騎の小さな軍勢だったのですが、火を見て大軍と勘違いしたのですね。
平家軍が逃亡したのを見た義経は、たちまち安徳天皇の内裏を焼き払ってしまいました。
宗盛は船の中で、義経軍の人数が少ないのを知ると
「ああ、もったいないことをした。取り囲んで討つこともできたはずなのに」
と嘆き、
「能登殿はおらぬか。陸に上がって合戦せよ」
と命じました。
ここで「能登殿」こと平教経(たいらののりつね:1160~1185?)が初めて登場しました。教経は清盛の甥で、平家物語の中では平家軍最強の男として現れますが、『吾妻鏡』では特段重要人物として取り上げられてはおらず、本当に武勇にすぐれた人物であったかどうかは不明です。
平教経は、「舟戦には、やり方というものがあるものだ」と言って、鎧を着ずに軽装で義経軍の前に現れました。
教経の弓は射通さぬものはないと有名で、教経に狙われた者は次々と鎧を射通されて死んでいきます。教経は「次に大将軍義経を射てやろう」と狙いを定め、矢を放ちます。
そのとき、義経を助けようと前に立ちはだかったのが佐藤継信でした。継信は左の肩から右の脇に向かって矢を射通され、落馬します。
そこに、継信の首を取ろうと近づいてきた男がいました。教経の甥の菊王丸(きくおうまる:?~1185)です。慌てて佐藤忠信がその菊王丸を射落としました。
平教経は、かわいがっていた甥が重傷を負ったのを見て、急いで舟から飛び降りて菊王丸を持ち上げ、また舟に飛び乗りましたが、手当ての甲斐なく菊王丸は息を引き取りました。それによって戦意を喪失してしまった教経は、そのまま戦場から撤退しました。
義経に抱きかかえられた継信は、致命傷を負っていました。義経が
「思い残すことはないか」
と尋ねると、継信は
「主君に代わって討たれたことは最高の名誉です」
と言って、そのまま息絶えました。
義経は涙を流し、僧を呼んで継信を弔いました。義経にとって側近の戦死はこれが初めてのことでした。
