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日本人の物語00437【平安後期】平家にあらずんば人にあらず

 清盛は、高倉天皇に嫁がせた娘・徳子を特にかわいがったらしく、徳子のこととなるとひどく大人気ない行動に出てしまう癖がありました。
 事の始まりは、徳子が箏の名手である小督(こごう)という女房を高倉天皇に紹介したことでした。この小督が高倉天皇の寵姫となったと聞き、清盛は激怒します。小督は清盛を恐れて、内裏を脱出して嵯峨野に隠棲するようになります。
 小督を失って悲しんだ高倉天皇は、側近の源仲国(みなもとのなかくに)に命じてこれを探させました。仲国は都じゅうを練り歩き、小督を探します。そしてあるとき、嵯峨野でふと箏の音を耳にします。これこそ、聞き慣れた小督の箏の音色であると確信した仲国は、その音の源を訪ね、遂に小督を見つけたのです。
 仲国が小督を連れ帰ったことで、高倉天皇はひどく喜びました。その後、小督は妊娠するのですが、これが再び清盛の耳に入ります。清盛はまたまた激怒し、小督を出家させて内裏から追放してしまいました。
 高倉天皇の意向よりも清盛の意向の方が優先されてしまうほど、清盛の権勢が頂点に達していたことが分かるエピソードですね。
 この頃の平家の権勢を示す言葉として、「平家にあらずんば人にあらず」というのがありますね。平家又はその息がかかった人間でなければ、官職も位階も昇進がままならないという意味です。
 この言葉を口にしたのは、平時忠でした。時忠といえば、清盛の妻・時子の弟に当たります。永暦2(1161)年に甥・憲仁親王を無理に立太子させようと画策し、二条天皇の勘気を買って解官させられてしまった人物です。
 その時忠は、再び官職を与えられ、承安4(1174)年1月11日には従二位に昇叙することとなりました。このとき時忠は調子に乗って、
「此一門にあらざらむ人は、皆人非人なるべし」
と放言しました。「人非人」とは「人であって人ではない者」ということですから、これが後世に「平家にあらずんば人にあらず」として伝わっていったというわけです。
 この頃から、天皇をも超越した権力を手にした平家は、その権力を傘に都に恐怖政治を布くようになります。「禿(かむろ)」と称する赤い衣装を着せた子供を京を歩かせ、平家を批判する者がいれば六波羅まで密告させたというのです。
 ただし、この禿の話は平家物語にみられるだけであり、平家を悪者にするための後世の創作ともいわれています。

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